差異共振(プラトニック・シナジー)の意味について


差異共振(プラトニック・シナジー)の意味について


差異共振の意味について


不連続的差異論では、差異のゼロ度共振によって、対極性・即非の論理性をもつメディア界が形成されると考えている。この、謂わば、太極界を科学的にどう見るのかが問題である。差異=イデアのゼロ度共振は、極性的連結を構成するだろう。このイデアシナジー極性体をどう見るのかという問題である。
 ここは、原時空間である。虚時空間と言ってもいいだろう。ここから、差異が無化して、同一性が支配する現象界が発現するのである。問題は、差異共振=イデアシナジーの様相と同一性現象界との関係をどう見るのかということである。
 ゼロ度が、イデアシナジーイデア結合を生む。これは、無限速度であると思われる。ここは、超時空間である。そして、差異がゼロ度から無となったとき、同一性が発生して、差異共振=イデアシナジーイデア結合は、いわば、固体化するだろう。即ち、同一性体が差異共振にとって換わるのだ。しかし、より精緻に言えば、差異共振性と同一性との間で、一種闘争があると思われるのである。なぜなら、無化とは、極限化、一種のフィクションであるからだ。即ち、ゼロ度化の極限としての無化であり、単に極限値に過ぎないのである。この極限としての無化としての同一性が、光であると思われるのである。つまり、光は、ゼロ度差異共振=イデアシナジーイデア結合の極限的フィクションである。換言すると、マーヤー、幻象・幻像である。おそらく、ゼロ→無化の終点(エンテレケイア・終局態)として、光/視覚があるのだろう。つまり、連続・同一性的差異=微分極限値=フィクション)の積分化としての光/視覚ではないだろうか。
 とまれ、問題点は、固体・鉱物化である。あるいは、物質化である。固体・鉱物・物質とは、差異共振様相の極限的無化の様態のことではないだろうか。差異共振様相=イデアシナジーイデア結合の極限無において、一方では、物質化が生起し、他方では、光が発生するだろう。即ち、イデアシナジーの極限無として、物質現象があり、発光現象が生起するということではないだろうか。
 この極限無をどう見るかが、問題である。あるいは、同一性の問題である。私は、極限無や同一性をフィクションであると見たが、しかし、フィクションは、ある様相なのであろう。差異共振様相の極限として、同一性・現象の様相があり、これが、様態である。ポイントは、このイデアシナジー様相と同一性・現象・様態との関係・構造・力学である。
 ここで、ウィリアム・ブレイクアリストテレスの哲学を取り入れたい。前者は、理性は、エネルギーの周囲・円周circumferenceと述べている。そして、後者は、エネルゲイアの終点としてエンテレケイアを提起している。思うに、極限という考えは、不適切のように思う。極限ではなくて、終点の方が適切であると思うのである。否、極限の果てに、終点化(終局化)が発生するのではないだろうか。つまり、ここには、質的転換が発生しているということである。そう考えると、プラトンや仏教の考え方では、不十分ということになる。つまり、現象とは、単に、幻像だけではないということである。換言すると、同一性化とは何であるかということでもある。即ち、差異のゼロ度から差異の無化への変化とは何かである。
 ゼロ度共振とは、差異と差異との境界がゼロであって、境界が無ということではないだろう。離接である。では、同一性による無化とは何か。
 ゼロ度差異共振とは、イデアシナジー化で、極性化である。プラスとマイナスの極性による共振化と言えよう。この共振極性には、エネルギーが発生するだろう。極性エネルギー(エネルゲイア)である。この極性エネルギーは、とりあえずは、デュナミス(可能態)である。ポテンシャル・エネルギーである。これが、超光速をもっているのではないのか。あるいは、原光速である。確かに、ポテンシャル・エネルギーにおいては、共振のゆらぎは、全体に即反映あされるだろう。虚時空間であろう。
 では、デュナミスからエネルゲイア(実現態・現実態)への変換はどういう力学によるのであろうか。非局所性から局所性への変換とも言えるだろう。この変換は、極性の牽引によると考えられよう。つまり、極性力学の一つの力動として、牽引力があるのである。そして、他の力動として、斥力があるのである。ということは、メディア界=シナジー界において、二つの力動の極があるのであり、牽引力の極は、+エネルギーと−エネルギーの融合として、同一性を形成すると言えるだろうし、また、斥力は、不連続性を形成するのではないだろうか。つまり、メディア界=シナジー界は、一方では、同一性界=現象界、他方では、イデア界へと開かれていることになるだろう。即ち、Z軸から現象軸への展開があるだろうし、また、Z軸からイデア界への展開があるだろう。ここで、現象軸をP (PHENOMENA)軸として、メディア平面と直交関係にあると仮定しよう。結局、XYZPの四次元が発生していることになる。ここで、整理して、イデア界=ガウス平面(XY座標平面)をイデア平面(イデア面)、メディア界=シナジー界(YZ座標平面)をシナジー平面(メディア平面)、同一性界=現象界(ZP座標平面)を現象平面と呼ぼう。
 とまれ、これで、極性エネルギーの同一性化=現象化を記述したことになり、仮象でない、実現象を提起したことになる。ポスト・プラトン主義である。ここでは、同一性のエネルギーが生成消滅しているのである。シナジー界のデュナミスがエネルゲイア化し、それが、エンテレケイアとなるのであろう。このエネルゲイア化であるが、これは、ポテンシャル・エネルギーの動態化であり、非可逆的である。→は、一方的である。つまり、エネルギーの量化である。例えば、炭素と酸素の結合による二酸化炭素の生成を考えるといいだろう。2C+O2→2CO2 であるが、炭素デュナミスと酸素デュナミスが結合して、エネルギーを放出しつつ、二酸化炭素を現象化させる。
 ここで、光速度を考えると、それは、デュナミスのエネルゲイア化に関わるだろう。シナジー界の差異共振波動が原光(プロトライド、 protolight)である。それは、無限速度、超光速である。しかし、それが、同一性=エネルゲイア化されると、光速になるのであろう。これは、共振波動が同一性波動になるということだろう。これを、炭素・酸素結合=二酸化炭素化で考えると、メディア=シナジー界の共振差異波動=原光(無限速度・超光速)が、同一性化=光化したことなのだろう。つまり、光というエネルギーを発生させるだろう。これが、E=mc^2のことだろう。(思うに、シナジー・デュナミスの同一性化を+化、不連続性化を−化と呼べるかもしれない。)
 ここで、光の発生源である太陽ないし恒星を考えると、それは、共振差異波動を同一性エネルギーに変換する回路と言えるだろう。差異/同一性変換回路、差異/同一性トランスである。メディア界・シナジー界から同一性・現象界への変換回路としての太陽・恒星である。換言すると、太陽・恒星は、メディア・シナジー界の極性の同一性面を見せていることになるだろうし、差異共振性(メディア界)や不連続性(イデア界)を隠蔽していると言えよう。プラトンや仏教は、現象を仮象としたが、それは、仮象でなくて、同一性の実現象なのであるが、それは、内在的に、メディア界やイデア界を隠蔽していると言えるのである。【ここで、超越論性と内在性の問題が生じていると言えよう。同一性現象という一つの実在界を提起したので、超越論性は、正しくないだろう。スピノザニーチェドゥルーズが正しいだろう。つまり、内在論が正しいのである。イデア界、メディア界もあり、また現象界も存するということであえる。現象界は、イデア界やメディア界という超越論界の仮象ではないのであるから。だから、現象学は、一面的である。フッサール的に言えば、ノエシスノエマ→フェノメナとしなくてはならないのである。現象学には、フェノメナがないのである。】
 このように考えると、量子論はどうなるだろうか。それは、同一性=光の現象界の力学にいまだ拘束されているだろう。イデアシナジー界=メディア界は、差異共振波動=原光が無限速度・超光速で伝わっているのである。D.H.ロレンスの言った「黒い太陽」dark sunとは、原光のことを指しているのではないだろうか。
 さて、シナジー界の事象については、別稿で検討したい。