シナジーと自然:2nd ver.


シナジーと自然:2nd ver.


以下は、「シナジーと自然」を改訂したものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10014218007.html
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シナジー界と自然
テーマ:プラトンシナジーイデア共振体理論
シナジー界と自然

 先ず初めに、用語を統一させて、明晰な論述にしたい。
おそらく、不連続的差異論で用いたイデア界/メディア界/現象界の三元論の用語は、明快であり、便利ではあるが、新プラトンシナジー理論に深化させたので、用語の変更を明示する必要がある。イデア界は、おそらく、原イデア界ないしプロト・イデア界とした方がいいのかもしれない。あるいは、不連続界、特異界とすることができるだろう。又は、差異不連続界である。メディア界は、差異共振界であり、シナジー界とするのが適切だろう。そして、現象界は、このままでいいが、同一界と呼ぶこともできるだろう。光に焦点を当てると、光象界と呼べるだろう。いちおう、不連続差異界/シナジー界/光象界としよう。
 
 では、シナジー界と自然の関係について、考察しよう。不連続差異の共振するシナジー界は、対極性の世界であり、おそらく、原型の世界である。類や種別の世界である。植物、動物、等々。また、朝顔やヒマワリの種別の世界である。個物や個体は、特殊性の世界である。それらに対して、絶対的差異、単独的差異がある。(この解釈は、実は、難しい。以前、徹底的に考察して、イデア界の不連続的差異の共立を感得して、不連続的差異=絶対的差異=単独的差異を認識すると考えたのである。つまり、イデア界の認識が、それを導くと考えたのである。この点の再考を後で行ないたい。)

 絶対(単独)的差異界/シナジー(太極)界/光象(光相)界

という基本図式があるが、自然ないし宇宙というものは、シナジー界とその顕現である光象(光相)界である。ここで、スピノザの区別、 natura naturansとnatura naturataを見てもいいだろう。能産(能動)的自然と所産的自然である。しかしながら、問題は、近代主義の自然観は、光象界・同一性界を自然と見ているだけであり、シナジー界・太極界・能産的自然を見ていないことである。つまり、物質的自然のみを見て、イデアシナジー=能動的自然を見ていないことである。(ID〔インテリジェント・デザイン〕理論は、イデアシナジー界の理論であろう。)これは、生命科学にもあてはまることである。遺伝子の問題を、物質的自然として捉えているのである。即ち、DNAに遺伝子があると見ているのである。しかしながら、DNAは、同一性物質構造と言うべきであり、イデアシナジー原型ではないのである。例えば、遺伝子組み換えとは、一つのイデアシナジー原型に対して、別のイデアシナジー原型を組み込むことを意味するのではないだろうか。これは、原型同士の衝突を意味するだろうから、きわめて、危ういものと言えるのではないだろうか。
 また、環境汚染の問題であるが、環境汚染とは、自然のシナジー構造を発現させる同一性・物質構造を阻害して、従来の生命体にとり、有害な環境が発生したり、害悪となる新たなウィルスや病原菌や生命体等が発生したりすることになるのである。
 ここで、空海真言密教両界曼荼羅を考えると、それは、シナジー界の極性界を表現したものではないだろうか。即ち、シナジー界の不連続極(イデア極)は、金剛界曼荼羅で、同一性極(光象)極は、胎蔵界曼荼羅ではないだろうか。
 さて、次に、上で言及した、絶対的差異について再考しよう。差異の不連続化によって、絶対的差異がもたらされ、また、純粋な差異共振も出現したと考えているのであるが、ここで、私自身の内在的経験を振り返って考えたい。
 差異の不連続化、これは、実感的には、何を意味するのだろうか。それ以前、私は、内在的コスモス性を肯定していたが、それは、日常的経験においては、抑圧されていたものである。とまれ、内在的コスモスを差異と私は考えていた。それは、いわば、全体主義的であった。そのコスモスが全体を包含すると思えたのである。しかし、差異の不連続化(それは、コスモスの不連続化であるが、)によって、差異やコスモスは、独立したのである。他者との、反射的関係をなくして、自己独立化したのである。即ち、差異の単独化・絶対化が生起したのである。これに私は無上・至高の歓喜を覚えたのである。
 さて、私の困難は、これを、どう位置づけるかにあったのである。わたしは、最初からかなり後まで、不連続的差異を特異性として捉え、それが、イデア界に共立していると考えたのである。こういうことである。今考えれば、私が捉えた不連続的差異とは、純粋メディア界=差異共振界のことであったが、当時は、私は、それを、イデア界と捉えていたのである。不連続的差異=特異性をイデア界と捉えたために、不連続的差異=特異性と、イデア界の不連続的差異の共立とを、一致させなくてはならなかったのである。
 即ち、私の内面では、不連続化された差異=コスモスが生起したわけだが、これを、イデア界の不連続的差異の共立と、一致させる必要が生じて、困難を感じたのである。不連続的差異=不連続的コスモス=特異性が、イデア界=不連続的差異の共立とを、理論的に一致させなくてはならなかったのである。問題は、前者は、私という特異性であり、それが、イデア界全体を意味することになったことである。私という一つの特異性が、イデア界全体の特異性の共立と一致しなくてはならないという、矛盾に突き当たったのである。私の考えた解決方法は、私という特異性=コスモスには、イデア界の不連続的差異の共立が含まれているということで、その共立の一部であるわたしという不連続的差異を、直観しているのだろう、ということであった。言い換えると、私は、不連続的差異の共立するイデア界全体であると同時に、その中の部分である一つの不連続的差異であるのであった。これは、際どい考えである。ぎりぎりの思考である。もし、イデア界における不連続的差異の共立における一つの不連続的差異の意識が、全体性をもつならば、この考えは成立するのである。これは微妙なところである。イデア界の不連続的差異は、志向性だけである。それは、他者の不連続的差異へと志向するが、それを、コスモスと言えるのだろうかという疑問がある。半田氏の言う通り、それは、潜在的なものであり、いわば、デュナミス(これは、イデア界、メディア界、両方に使用できる概念ではないだろうか)である。しかし、私が、直観的に、特異性=不連続的差異=コスモスで捉えたものは、全体感のあるものである。そう、もし、イデア界にコスモスが生起しているとしても、それは、即自的なコスモスであり、対自的なものではありえない。だから、私が直観した特異性=不連続的差異=コスモスが、不連続的差異が共立するイデア界であるという解釈は、無理があったのである。また、だから、イデア界とメディア界の区別が、私において、不明確であったのである。揺らいでいたのである。例えば、D.H.ロレンスのコスモスやプラトンのコーラや西田哲学の絶対矛盾的自己同一、等の概念の位置づけが、イデア界になったり、メディア界になったりしていたのである。
 私がそのようなイデア界とメディア界との未分化状態にあったが、Kaisetsu氏は、かなり早く、明敏に、不連続的差異の共立する領域として、メディア界を提示していたのである。また、そのような状況で、私は、ヌース理論の半田広宣氏に遭遇したのである。彼は、俊敏に、鋭敏に、イデア界を潜在的イデアの領域、メディア界を顕在的イデアの領域と、洞察したのである。私は、最初、半田氏は、誤解しているのではないかと思っていたが、誤解していたのは、私の方であったのである。(思うに、私の精神は、不連続的差異論の成立以前は、正に、カオスモスというか、カオスにあったと言えよう。イデア界、メディア界、現象界が未分化混沌にあったのである。また、不連続的差異論が成立した後も、イデア界とメディア界を混同していたのである。)
 とまれ、半田氏と対話して行く中、また、Kaisetsu氏の考えを想起しつつ、私は、イデア界とメディア界の区別を明確にしていったのである。私が最初、直観した不連続的差異=特異性(単独性)=コスモスとは、実際、メディア界であったのである。私が直観した差異の共立とは、対自的な差異の共立=コスモスであり、即自的な差異の共立=原コスモス=イデア界ではなかったのである。半田氏が言うように、顕在的イデアであったのである。冷静に見ると、私が、差異の不連続化で、切断したのは、現象界とメディア界との《連続性》であったと言えよう。しかし、私の主観では、メディア界とイデア界の分離であったのである。この錯覚・錯誤は何を意味しているのだろうか。それは、私の主観において、メディア界と現象界との連続性が極めて強固であったことである。換言すると、唯物論的思考や近代自我主義が、根強かったということである。そう、私の主観にいちばん、近いのは、シュティルナーの唯一者の思想であっただろう。これは、ニーチェの単独性の思想とは、似て非なるものである。(私は、大変なエゴイストであったのであるが、現在も、そういう面が残っているだろう、きっと。だから、唯一者や唯一神のような言動をするのだろう。しかし、近代主義においては、多かれ少なかれ、人間は、人神になっているのである。)とまれ、これで、私の内在的経験における、差異の不連続化の意味したものを明晰に分析したと考えられる。本当に、創造的な、新しい考えに達することは、難しいことであると痛感する次第である。
 ところで、専門用語であるが、不連続的差異論本来の
イデア界/メディア界/現象界の枠付けの用語は残しておくべきであろう。そして、より個別化するとき、イデア界を原イデア界、潜在的イデア界、等と、メディア界の様相をシナジー場、差異共振界、等と、現象界を、光象界、光相界、等と呼ぶのがいいだろう。プラトンシナジー論においても、不連続的差異論の基本構成を基盤とすることを、確認しておこう。
 
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■用語の精査

確かに、用語の精査が必要のように思います。「メデイア界⇒シナジー場」は、妥当な表現だと思います。但し、必要に応じて、使い分けて使うことが必要と思います。メディアを「即非」の状態として使う場合は、このまま、メデイアと言うのも意味があると思います。しかし、その構造を具体的に分析する場合は、シナジーという表現が適しています。
イデアは、確かに、プロト、であり、原風景であり、出発点であり、背景です。つまり、「先立つもの」「哲学用語としてのForm」「原初的枠組み」です。つまり、「⇒」の世界です。
現象界は、フェノメノンです。
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ (2006-07-02 00:47:02)

■追記:リフレクションとシナジーは異なること。

私の存在を見る私の存在を見る、その私の存在を見る私の・・・・・、これまでの哲学は、このようにリフレクションとして、反復として「メデイア界」を見ていたのですが、これを「一つにシナジーの場」として一体的に見るべきである、と思います。微分積分も不要なのです。
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ (2006-07-02 00:52:22)