差異から同一性への変換について:不連続性(闇)と連続性(光)の即

差異から同一性への変換について:不連続性(闇)と連続性(光)の即非論理のメディア界


先に、差異のゼロ度から、差異の無化への変換について、それまでの思考とは異なって、極限無=同一性であるとして、考察した。つまり、同一性をある実現象として捉えたのであるが、ここで、再考しよう。
 やはり、ゼロ度差異共振のシナジー様相は、イデア界と現象界の両界領域として捉えることが、明確であると思う。これは、不連続的差異論の誕生時の考え方である。簡単に言えば、イデア界と現象界の中間領域として見るのがいいということである。だから、イデア面と現象面をもっているのであり、前者は不連続性の極であり、後者は連続性ないし同一性の極である。これが、いちばん、明快明確な考え方だと思う。
 だから、同一性をある実現象と捉える必要はないのである。それは、メディア界の現象面・連続面から発する事象とすればいいのである。この不連続/連続(同一)性の特性は、即非の論理ということである。《即》が、連続・同一性であり、《非》が不連続性である。これで、問題解決である。結局、《初心》に戻ったのである。プロトへの回帰である。
 ところで、ここでの論点に関連して、Kaisetsu氏が論述した光と闇の根源的極性(イデア的極性)について考えてみると、光は連続性に、闇は不連続性に対応させられるのではないだろうか。メディア界(メディア・シナジー界)において、イデア→現象と現象→イデアの両方向(双方向)性があるだろう。前者を闇→光、後者を光→闇というように考えることができるのではないだろうか。あるいは、闇⇔光というように図式化できよう。これは、イデア界⇔現象界と換言できる。そう、Kaisetsu氏に倣えば、この図式において、色彩がすべて表現できることになるのだ。また、(ゲーテ&)シュタイナーの色彩論から言うと、青空の青とは、闇(イデア界)→光(現象界)、夕焼けの赤とは、光(現象界)→闇(イデア界)において発現すると言えるだろう。闇と光の太極(対極・シナジー)性である。
 ここで、D.H.ロレンスの「黒い太陽」dark sunであるが、それは、イデア界を指していると言えるのではないだろうか。あるいは、メディア界のイデア面である。私は、ロレンスは、通俗的プラトニズムを批判して、「黒い神」dark Godないし「未知の神」unknown God論を立てたが、「黒い太陽」、「黒い神」、「未知の神」も、結局、イデア界を指しているのではないだろうか。また、ロレンスのコスモスとは、メディア界である。プラトンのコーラと重なるのである。そのように考えられるならば、D.H.ロレンスは、自分が否定・批判したつもりのプラトン哲学を、天才的直観によって、把捉していたことになるのである。ドゥルーズよりもはるかに、鋭敏にプラトン哲学・イデア論を把握していたと考えられるのである。
 さて、最後に、現代宇宙論について簡単に触れると、何度も言及しているダークエネルギーダークマターの問題であるが、ここでも、これまでの総論を繰り返すことになるが、現代物理学は、光・同一性・物質の視点・観測点から、《宇宙》を捉えようとしているのである。しかし、ニュー・プラトニック・シナジー・セオリー(略して、ニュープラ・シナジー理論?)から、すぐわかるように、《闇》、不連続差異性、イデアの《エネルギー》をカウントしていないのである。Kaisetsu氏の視点から言えば、マイナス・エネルギーを計算していないのである。また、光速度の問題もある。光・同一性・物質の観測では、闇である差異の速度を無視しているのである。宇宙に観測できる光は、それと対になる闇を計算しなくては、エネルギー的に釣り合わないだろう。推量するに、虚数値のエネルギー、複素数のエネルギーが、ダークエネルギーダークマターの正体ではないだろうか。