素描:連続・同一性・集合的観念とプロトモダン


素描:連続・同一性・集合的観念とプロトモダン


以下は、思いつくまま、書きつづったもので、未整理なものである。


 連続・同一性・集合(全体)的観念とは、本質的に、全体主義的観念である。そして、これは、専制主義・絶対主義・ファシズムを生むのである。とまれ、この観念(簡単に、連続観念ないし同一性観念と呼ぼう)は、連続的自我(連続・同一性自我)観念を生むのである。(そして、この連続自我が、近代においては、近代的自我、即ち、近代合理主義的自我となるのである。しかしながら、本来は、近代においては、連続自我ではなくて、積極的に、差異自我が発現したのである。これは、古代ギリシアの反復と言えるだろう。)近代において、連続自我は、近代合理主義の影響を受けて、差異を徹底的に否定・排除する。連続同一性物質主義=唯物論である。そして、これに、資本主義貨幣経済が結びつくのである。連続自我・唯物論・資本主義貨幣経済。そして、これに上述した、全体主義観念が付け加わるのである。連続自我with全体主義ファシズム)・唯物論・資本主義貨幣経済、この三位一体が「近代主義」の本体であろう。小泉ファシズム政権とは、これに、新自由主義という仮面・「パフォーマンス」を付けているのである。それは、連続自我with 全体主義のカモフラージュ・擬態である。(ここで、Kaisetsu氏が、小泉政治構造主義と呼んでいることを想起してもいいだろう。構造主義は、2項対立を生むシステムであり、正に、そうである。)  
 さて、次に、連続同一性観念の、権力性を、確認しておこう。先ず、連続同一性自我は、連続同一性自我中心主義という欲望をもつ。この連続自我欲望は、他者=差異を否定し、排除し、無化する欲望である。これは、当然、自己内部の他者=差異の否定・排除・無化を含むのである。より丁寧に言えば、自己内在的他者=差異を、連続同一性自我が、隠蔽するようにして、否定・排除・無化しているのであり、この連続・同一性の欲望=暴力が、外部・外在的他者=差異に向けられると言えるだろう。結局、連続同一性自我は、他者=差異の否定・排除・無化の欲望=暴力をもつと言えるのである。これが、権力の単位であると言えるだろう。即ち、連続同一性自我が、ミクロ権力である。(コナトゥス、自己保存力と言った時、それは、一部、このミクロ権力を含むだろう。) 
 では、次に、国家との関係について考察しよう。連続自我ないし連続同一性自我の欲望=暴力=ミクロ権力は、当然、同質の様態と同一化するだろう。即ち、連続同一性自我の《権力》をもつものと、親和するのである。これが、国家観念の原点であろう。連続同一性自我の、同一・同質的親和が、連続同一性の加算(Kaisetsu氏による)が、原国家を生むと言えよう。そして、これが、拡大・延長したものが、国家共同体と言えるだろう。    
 では、問題を差異に移してみると、連続同一性自我に対して、本来、不連続的差異=他者の自我が内在しているのであり、これが、本来、基盤である。プロトモダン(原近代)とは、この不連的差異=他者が賦活された時代と考えられるのである。【思うに、不連続的差異=他者が賦活される時代は、反復されただろう。しかし、ヨーロッパ近代(西欧近代ではないのに注意。南欧イタリアから、原近代は発したのである。)が、この特異点であるのは、どういうことなのだろうか。あるいは、続く西欧近代の特異点とは何であろうか。後で検討したいが、今考えられることは、個的単独性・特異性が明確に発動したことである。思うに、これには、中世哲学がある。いわゆる普遍論争に現れたような個物と普遍性の争闘が、近代に生きているのである。アリストテレス主義とプラトン主義の争いが、ルネサンス・プロトモダンの知的基盤になっているのである。これは、同一性と差異との争いと換言できる。つまり、ヨーロッパ・欧州において、メディア界と現象界の争いが徹底化していたのである。これは、他のいかなる地域においても、あり得なかった知的実践的環境である。あるいは、スコラ哲学の知性の錬磨の環境である。思うに、このようなアリストテレス的知的環境、換言すると、現象界的知的環境にあって、プラトン哲学が新たに導入されて、フィチーノを中心とするフィレンツェプラトン・アカデミー(アカデミア・プラトニカ)が生まれ、イタリア・ルネサンスを点火するのである。つまり、現象界的個体ないし現象界的自我が十分発達したところに、プラトニズムが爆発・噴火したのである。これが、ヨーロッパ・欧州において、不連続的差異が賦活されたことの特異点だと思うのである。即ち、徹底した現象界的知性(個物的知性)ないし論理知性の錬磨の知的環境である。ここで、発現した不連続的差異は、単独性・特異性を帯びたのである。もし、個物的知性の錬磨がなければ、メディア界の力は、十分単独化されなかっただろう。   
 つまり、こういうことではないだろうか。後のプロテスタンティズム反動とは異なり、イタリア・ルネサンスにおいて、メディア差異が、言わば、流出的に、同一性的知性と結びついたのである。ここでは、メディア界と現象界が弁証法的関係ではなくて、双方向的であったのではないか。つまり、プロテスタンティズムのように屈折せずに、南欧イタリアでは、メディア界の自然流出として、現象界・個物的知性=同一性知性が出現していた。このアリストテレス的知的環境において、プラトン哲学が導入されて、デュナミス(可能態メディア界)が賦活されて新たにエネルゲイア(実現態メディア界)となったということではないのか。そして、このエネルゲイア=差異共振体が、即ち、不連続的差異である。メディア界の賦活は、言わば、永遠回帰で、史上何度も生起したと考えられる。しかし、ヨーロッパ・欧州のルネサンスのような賦活は、空前であったと考えられる。アリストテレス的、スコラ哲学的個物的知的環境の基盤が特異点を作ったと考えられるのである。ここから、メディア界が不連続的差異化したのである。そう、メディア界は、もともと、不連続的差異であるが、徹底した現象界的個物化がなければ、連続・同一性の皮膜をかぶっていて、実相を顕在化しないだろう。そう、多神教や汎神論のようになるだろう。そう考えると、アリストテレスキリスト教は、現象界的同一性個物化をもたらしたと言えよう。つまり、アリストテレスキリスト教が、ルネサンスの知的条件である。そう、ここから、メディア界という卵が孵るのである。アリストテレスキリスト教から、プラトン哲学が復活するのである。つまり、同一性個物化によって、メディア界が個体的に賦活されるのである。同一性個体的メディア界化、これがルネサンスである。そして、これが、デカルト哲学を生み、また、同一性的反動として、プロテスタンティズムを生んだと考えられるのである。   
 問題は、正に、同一性個体的メディア界の意味である。これは、メディア界と現象界との両界性であり、両義性、ヤヌス性をもつ。しかし、これ自体は、プロテスタンティズム的反動的自我ではない、即ち、メディア界的差異を否定・抑圧・排除・隠蔽した自我ではない。父権的自我ではないのである。父権的反動は、プロテスタンティズム、西欧がもたらしたものである。(精神分析の問題は、その自我が、西欧的自我、反動的自我を対象にしているのであり、特殊な自我を対象としていることに、気付いていないという偏狭性があるのである。オイディプスとは、西欧的反動自我であり、倒錯した自我である。南欧の自我は、純正の自我である。)このような南欧自我、純正の同一性自我、差異⇔同一性自我において、ルネサンスが発動したのである。  
 では、新たなメディア界の発動の原動力は何なのであろうか。静態エネルギーを賦活するのは何だろうか。それは、新しいイデア界の起動ではないのか。新たなイデア界への回帰によって、新たな1/4回転が発動して、新しいメディア・エネルギーが発動するのではないだろうか。それまでは、メディア界は休火山である。しかし、イデア界への回帰により、新しい差異共振が生起して、エネルギーを生むと考えられるのである。即ち、ルネサンスとは、イデア界への回帰、永遠回帰によって発動したと言えよう。このルネサンス・プロトモダン革命はいわば、永遠革命である。これは、差異共振エネルギーが、現象界を変容するのである。これが、プロトモダン革命であり、これまで、反動的同一性・プロテスタンティズムオイディプスによって阻害されて、ファシズム化してきたのである。これには、右派、左派の区別はない。プロトモダン・不連続的差異・イデアシナジーの貫徹、これあるのみである。
 ところで、ふと思ったのであるが、不連続的差異とは単に、差異共振体であるメディア界のことだけではなくて、絶対的不連続的差異の共立するイデア界からの発動としての、差異共振体であるメディア界のことを意味しているのではないだろうか。換言すると、イデア界的回帰による原エネルギーの発動による、差異共振体としてのメディア界である。だから、単なるメディア界と、イデア界に「励起」されたメディア界は異なるはずである。前者がデュナミスで、後者がエネルゲイアではないだろうか。思うに、オルテガ・イ・がセットが、動態化されたイデアのことを述べていたように思うが、それが、エネルゲイアである。(また、「いきの構造」のnovalis666氏が主張していたものも、これであろう、おそらく。)
 デュナミスとしてのメディア界とエネルゲイアとしてのメディア界、これが、また、ダークエネルギーの問題に関係するだろう。後者には、イデア界の虚エネルギーがあるのであり、これとその発動のエネルゲイアを把握していいないように思えるのである。つまり、現象界の光=同一性のエネルギーを捉えているが、メディア界の黒い太陽=差異のエネルゲイアを捉えていないのである。つまり、虚エネルギーと差異共振エネルギーを捉えていないのである。後者を、単に、光=同一性、即ち、E=mc^2の枠でしか捉えていないと推察できるのである。この点については、別稿で検討しよう。