イデアと物質について:即自イデア、対自イデア、連続・同一性イデア

イデアと物質について:即自イデア、対自イデア、連続・同一性イデア


イデアシナジー理論(NEW PLATONIC SYNERGY THEORY)の基礎に関して、考察しよう。
 KAISETSU氏は、イデアとは、方向性・ベクトルであると明快に述べている。これは、フッサールノエシスノエマにほぼ相当するだろう。私見では、イデアは、即自的イデアと呼ぶことができる。(イデアの力の科学に関しては、別途に検討したい。)これが、ゼロ度共振によって対自的イデアとなると考えられるのである。シナジーとしてのイデアである。不連続的差異論では、メディア界である。ここでは、イデアの共振態があり、それは、多層的な共振態、多様態としての共振態であると見ることができるだろう。ただし、あくまで、不連続的イデア、絶対的イデアの多様共振態と見る必要がある。ここには、極性をもつ原光の発光があるだろう。なぜなら、ゼロ度共振は、プラスとマイナスの強度を発生させるからである。ここで、強度について言うと、これは、いわゆる、物質的エネルギーではなく、原エネルギーである。即ち、原光/原エネルギーの様相があるのであり、ここには、物質は存在していない。また、精神も存在していないだろう。ここにあるのは、絶対・不連続的ノエシスノエマ(=イデア)の多様共振態であり、それは、知存在(知即存在)のシナジーであるだろう。これを、おそらく、原有機体(参照:ホワイトヘッド有機体哲学)と呼ぶことができるのではないだろうか。原知的生命体とも呼べるだろう。しかし、枢要なエッセンスは、知存在シナジーであるということであり、ここでは、まだ、精神/物質、観念/質料、思惟/延長の二元論が発生していず、一元論であることである。鈴木大拙即非の論理であるが、これは、イデア=不連続的差異の即非の論理であり、例えば、イデア1とイデア2との即非であり、イデア1=イデア2と、イデア1≠イデア2とが併存共立しているのである。私がここで言う一元論とは、イデア一元論であるということである。即ち、知存在(=知即存在)であるイデアの一元論である。イデアは、精神でもないし物質でもない、その両者でもないのである。また、それらの未分化状態でもない。精神と物質の二元論が生まれる以前のイデア一元論である。ただし、無数のイデア一元論である。換言すると、本来一元であるイデアを、二元論的思考が、二分化しているのである。
 しかしながら、イデア多様共振態=メディア界において、知と質料との極性化が発生すると言えるだろう。それは、即自的なノエシスノエマであるイデア(プロト・イデア、原イデアと呼ぼう)が、共振化したときに、シナジーであるノエマを形成するからである。即ち、シナジー化したノエマが、質料極になると言えようし、シナジー化したノエシスが、知性極になると言えよう。ここで、もう少し精緻に考えよう。
 ノエシスとは、知存在=知即存在である。単に原知性であるのではない。ノエシスとは、即自的イデア、方向性・ベクトルそのものであり、ノエマとは一体である。即ち、ノエシスノエマである。だから、一体化させて、例えば、ノエシマと呼んでもいいのである。【思うに、フッサール哲学の問題として、純粋意識を根源にしていて、イデア自体を捉えていないと見ることができるかもしれない。だからこそ、ハイデガーが、いわば、狡っ辛く、その隙をついて、存在論を提起したのだろう。確かに、フッサール哲学の弱点であろう。KAISETSU氏が説くように、ノエシスイデアの始点に、ノエマイデアの終点にすれば、正しかったと思うのである。ノエシスノエマである。】
 以上から、イデアの共振態=シナジーである「原有機体」は、ゼロ度の接点(ノエマ)を仲介して、原光エネルギー態となっていると見ることができるだろう。原光=原エネルギー=原強度と言える。しかしながら、これは、いくら強調しても強調し過ぎることはないのであるが、あくまで、イデアシナジー態としての、イデア共振態としてのそれであり、精神と物質の二元論は発生してないということである。イデア一元論である。【ヌース理論への、私の根本的な疑問は、このイデアシナジー態を素粒子と考えている点である。素粒子・量子とは、量子力学という唯物論的自然科学によって捉えられた物質の根源(元素・「アトム」)であるから、イデアシナジー態を素粒子と考えるのは、カテゴリー・エラーだと考えられるのである。だから、ヌース理論は、イデア論唯物論との折衷理論であり、欺瞞的な理論になっていると思うのである。同一のものを、一方では、イデアと説き、他方では、物質と説いているのであるから。また、NOOSとNOSも、イデアとしては、奇妙に思えるのである。半田氏は、NOOSを物質を創る力としているのであり、NOSをそれの知覚と考えているようだ。しかし、物質を創る力がNOOSならば、それは、イデア論ではなくて、唯物論ではないのか。これらが、私のヌース理論に対する疑問点である。中沢新一氏の「霊的唯物論」にとても似ているように思えるのである。「霊的唯物論」とは、ハイデガー哲学と同質・同類だと思う。それは、超越論的唯物論と呼べよう。 p.s. もう一点、問題点をあげると、半田氏は、素粒子潜在的イデアといい、原子を顕在的イデアと呼んでいる。不連続的差異論から言うと、潜在的イデアとは、絶対的差異・不連続的差異に当たり、素粒子はそうではないし、顕在的イデアは、差異共振態・差異シナジーのことであり、原子ではないのである。どうも、ヌース理論は、とんでもない勘違いをしているのではないだろうか。イデア即物質にしているのである。半田氏は、きわめて、鋭敏な洞察力をもった人物であるが、イデアを物質に直結させるという、途轍も無い誤謬を犯しているのではないだろうか。それは、まったく、真理を追究する精神性に反している。それは、虚偽である。邪悪である。思考の基本の基本を無視しているのである。】
 このイデアシナジー態(=メディア界)のイデア一元論を再確認しておきたい。そして、これが、連続・同一性化するときに、精神(思惟)と物質(延長)の二元論が発生すると言えよう。真実在は、イデアシナジー態(これが、D.H.ロレンスの「暗い宇宙のバラ」である)であり、ここにおいて、森羅万象は一如、梵我一如、ミクロコスモス=マクロコスモスである。しかし、連続・同一性による現象=仮象=幻像(マーヤー:W.ブレイクならば、ヴェイラVALAである)=現象光的被膜化によって、主客分離が発生するのである。現象光による主客分離である。主観と客観、主体と客体の発生である。分離二元論あるいは二項対立的二元論の発生である。連続・同一性が主客の距離を作るのであり、四次元時空間を作ると言えるだろう。つまり、連続・同一性とは、現象光であり、これが、距離と時間を発生させているのである。(これが、相対性理論の意味であろう。アインシュタインは、現象界の科学理論を真に立てたと言えよう。)
 この連続・同一性が発現させる主客二元論的現象界とは、虚構の世界である。連続・同一性という仮構が造り出している仮現・仮象界である。そう、現象光は、仮象である。本来は、原光なのである。ただし、光があるように見えるのである。光は幻像なのである。原光が真実在である。(これは、阿弥陀如来が意味する無量寿如来・アミターユスと無量光如来・アミターバだと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5
)だから、物質とは、イデアシナジー態=原光の、連続・同一性である現象光化であろう。イデアシナジー態が真実在である知存在=知即存在であるが、それが、現象光化したものが、物質であると言えようし、現象光の主観が精神・思惟である。
 もう少し精緻に考えよう。知存在であるイデアシナジー態=メディア界が真実在であり、ここでは、言わば、思惟即延長である。思うに、違う用語が必要なのである。原時空間、時空素がここにはあるだろう。この時空素が、知存在である。又は、知的原強度と言えよう。あるいは、主客合一の超世界である。超光の世界である。この原光・超光の知存在が、連続・同一性の現象光によって、主客分離されるのである。即ち、同一性化された知存在は、光速度に限定される。即ち、無限であったものが、有限化されるのである。無限の原光(「無量光」)であったものが、有限の光となるのである。無限速度から光速度への転換がある。このとき、イデアシナジー態である知存在は、現象になるのであるが、このとき、連続・同一性の現象光は、イデアシナジー態を連続・同一性へと変換させて、イデア共振をイデア同一性へと転換すると言えよう。
 問題は、同一性が、知存在をどのように思惟と延長に分離するのかである。以前の図式を想起しよう。差異1・同一性・差異2というメディア/現象境界を考えよう。そして、メディア界においては、差異1・共振・差異2である。思うに、同一性が、差異1と差異2とを分離するのは見やすいだろう。同一性による共振=シナジー態の切断があるのだろう。ここで、差異と差異との同一性の距離が生まれる。即ち、延長であり、空間である。そして、この延長空間(延長時空間)を、同一性である現象光が満たしている。そして、この現象光を、差異である知存在が知覚するのである。即ち、光知覚=視覚が生起するのである。視覚による同一性の認識が、知性になり、そして、同一性の延長空間における他者=差異が、物質になるのだろう。言い換えると、同一性の認識が主観・思惟・心・精神となり、同一性によって排除された差異が、客観・延長・身体・物質となるのだろう。つまり、同一性の現象光による視覚が精神を生起させ、視覚=精神により排除された差異が、身体となると言えよう。ここに精神と物質の二元論が生まれるのである。しかしながら、注意すべきは、同一性に抗して、差異である身体を中心にする身体論に囚われることである。身体論は、たいへん流行った思想であるが、しかし、これも、逆二元論なのである。精神に対して、身体を強調するというのは、精神の強調と同形である。観念論と唯物論の関係と等価である。そうではなくて、視覚と身体との本来の共振性を把捉することが重要である。現象光とは、虚像なのである。光の真実在は、原光である。そして、原光は、差異共振態・差異シナジーである。本来、原感覚は共振態・シナジーを形成しているのである。ただい、同一性の幻像によって、視覚精神と身体とが二元論的に分離したに過ぎないのである。ニーチェディオニュソスとアポロの一体性を説いていることは、正鵠を射ているのである。(一般に、両者を、二項対立で捉えるようだが、それは、誤りである。ディオニュソスとは、差異共振・シナジーのことであり、そこに原光→現象光が幻像・仮象化するのである。)
 ということで、連続・同一性の現象光という幻像・仮象によって、イデアシナジー態である知存在が、精神と物質の分離的二元論化されることが判明したのである。これが、反動的近代主義を生んでいるのである。だから、プロトモダン(原近代)に回帰させるには、光を再度、差異化すればいいと思われるのである。KAISETSU氏の光の陰陽極性論は、この点で役立つだろう。光に陰を認めることである。あるいは、原光としての光を確認することである。それは、光の身体化と言えるだろう。そして、同時に、それは、身体の光化である。分離二元論・二項対立から陰陽論・即非論への転換である。とまれ、光の身体化=身体の光化が重要だと思う。そして、思うに、座禅や瞑想とは、この「科学技術」であると思うのである。身体と光との融合をそれらの作業は生むと思うのである。そう、正に、東洋の実践叡知である。