時間について

テーマ:プラトンシナジーイデア共振体理論


KAISETSU氏は、新たな時間論を提起している(以下、参照)。
メディア界の事象とは、不連続的差異の共振事象であり、連続・同一性的事象=光の発生によって、現象界の時間事象が発生すると考えられる。現象界時間事象とは、量的な事象である。だから、直線的な連続量だけが存すると言えよう。即ち、

t1→t2→t3→・・・→tn

である。では、現在はどこに存するのだろうか。デリダ風に言えば、現在には、差延があるから、現在とは、現在であって、現在ではないというようなことになるだろう。即非の論理としての現在となるだろう。
 私の直観では、《現在》とは、特異点である。「わたし」という特異性と結びついた時間である。「わたし」という特異性とは、特異性の「コスモス」である。これは、また、不連続的な「コスモス」である。そして、これは、不連続的差異論のメディア界を指している。そして、この《現在》は、現象界の連続・同一性の時間と重なり合っているように思われる。思うに、ここには、何か不連続なズレがあるのではないだろうか。特異点としての《現在》と連続・同一性の時間とでは、質的差異があると考えられる。内的時間と物質的時間との差異と言ってもいいだろう。あるいは、特異性と連続・同一性との差異と換言できるだろう。思うに、特異点である《現在》を連続・同一性としての時間に適用して、現在という時間事象を虚構しているのに過ぎないのではないだろうか。理論的に考えて、連続・同一性の現象界の時間事象とは、単に連続量であり、未来/現在/過去の質的区別は発生しえない。つまり、いわば、ノッペラボウな時間事象があるだけである。あるいは、単にある時点の前後の量的差異の時間事象があるだけである。しかし、これでは、現在を特定できない。
 このように考えると、現象界には、《現在》は存在しないし、当然、《未来》も《過去》も存在しない。だから、質的時間事象とは、メディア界に存していると言えよう。そして、ここには、特異点としての《現在》が存するだろう。これは、いわば、《エネルゲイア》としての《現在》であり、不連続的差異・イデアの反復ないしイデア・デュナミスとしての《未来》と、連続・同一性化したエンテレケイアとしての《過去》が《集合》しているのではないだろうか。平明に言えば、可能性としての《未来》と、現象性としての《過去》があるだろう。(思うに、現象界の時間とは、《過去》の時間だろう。)
 だから、特異点としての《現在》とは、《未来》と《過去》との太極(対極)性であると言えよう。だから、ただ、差異共振性として《現在》ないし「永遠の現在」があるだけではないだろうか。《空》としての《現在》と言ってもいいだろう。
 ここで、私事を言うならば、高校生のとき、授業の時や休み時間中、机に座していて、しきりと未来を想起していた。今、この瞬間は、無くなり、私は未来に必ず居ることになるのであり、今は未来であるというような印象を抱いていたのである。今即未来であると、不思議、奇妙に感じたものである。今は既に、未来であると感じたのである。そうならば、《未来》と《過去》が存するのであり、《現在》は、存しないだろう。ただ、《未来》と《過去》との共振差異としての《現在》があるだけとなろう。だから、《現在》は、非《現在》である。即非としての《現在》である。
 ところで、後で、特異点としての《現在》である、特異性の「わたし」という「コスモス」について、検討したい。



《 ⇒3. 常に、「今」「現存在」「瞬間」は、不連続的差異論で定義された「メデイア」 としての振る舞いを示している、と考えるべきだ。
⇒4. つまり、常に、「今」は「過去」と「未来」の同時的存在であり、不連続的差異論としては「虚数」で表現される性質の存在なのである。さらに、「過去」と「未来」は、「現在」という「虚数」によって『絶対的』に断絶しているのである。つまり、「過去」と「未来」は「実数」であり、その間に、「虚数」で在る『今』が挟まっているのである。
⇒5. 結局、「過去」と「未来」こそ、必ず存在する概念であり、「現在」とは、「過去」と「未来」の共振現象 である。》

『第3番目の発見⇒「今」「現存在」「瞬間」が不連続的差異論で定義したメデイアであること。』
http://main.platonicsynergy.org/?eid=146219
Platonic Synergy  from Economics to Platonics