外観と精神:感覚と精神の関係

外観と精神:感覚と精神の関係
テーマ:哲学
外観から、ある程度、その人の性格がわかるだろう。私は、ある顔写真を見て、直観的に、この人物は、胡散臭い、ペテン師だと感じたが、実物と接して、やはり、そうであった。もちろん、すべてわかるというわけではないが、外観、とりわけ、顔には、その人の性格が現われやすいだろう。そう、風貌、顔貌という言葉があるのである。これは、このことを言っているのである。
 これは、どういうことかと言えば、外観に、内的精神の力が現れるということだろう。しかし、注意すべきは、表情でも、作った表情と、真率な表情との違いである。あるいは、表面・皮相な表情と、真相の表情である。
 思うに、自己に精神を意識していない限り、この区別がつかないだろう。そう、声音でも、ゴマカシの言葉かどうかはわかるものである。これも同様である。
 すると、感覚と精神とが、それなりにつながっているのがわかる。これは、バッハ音楽私見と共通するだろう。根源に、精神感覚・精神身体があるのであり、これが、発露するのである。いわゆる、感性というのは、この精神感覚・精神身体のことだろう。
 大事なのは、精神を霊と混同しないことだ。だから、聖霊とは、聖精神である。地霊も、地精神である。また、アニミズムシャーマニズムも、万物の精神の問題である。そう、神も精神である。精神という言葉は、実に的確、正確だろう。魂という語も、精神で表現できるだろう。宗教は、精神知性となるべきだろう。
 とまれ、外観には、精神身体が内在しているということになる。
 では、外観美、視覚美とはなにか。それは、精神身体とどう関係するのだろうか。精神身体の美がある。それとは別に、外観美、視覚美がある。そう、現象美である。例えば、自然美がある。これは、否定できない。しかし、ここには、精神美がないのだろうか。紺碧の空には、谷川俊太郎の詩にあるように、単に自然美というよりは、精神美があるだろう。これは、我々の精神を空に投影しているのではないだろう。つまり、自然精神があることになる。思うに、西洋はこれを認めようとしないのである。スピノザ哲学(神即自然)が、どんなに異端視されたことか。思うに、自然精神とは、差異共振シナジー、あるいは、差異共振性と言うべきなのだろう。(この点を、後で検討したい。)
 微妙なところである。現象美は、精神美と重なるのである。しかし、正確に言えば、即非関係だろう。現象美即非精神美であろう。これを一致させているのが、一般に、女性であろう。男性は、言語観念中心主義から、現象美からは、引いているだろう。芸術で言えば、モーツァルトフェルメールである。しかし、そこには、調和があるだろう。これが、精神美である。
 しかし、精神美と黄金分割(黄金比)はどう関係するだろうか。(これは、後で検討したい。)
 そう、コスモスという言葉の語源を考えるといいだろう。それは、宇宙であり、秩序であり、美である。化粧(cosmetic)の語源である。自然美=精神美=コスモスということになるだろう。そして、現代は、これの喪失した時代である。現象ではなくて、同一性中心主義になっているのである。拝金主義であり、戦争であり、狂気である。即ち、醜悪な時代なのである。