ヌース理論の連続・同一性主義批判:ヌース理論の「位置の等化」概念

ヌース理論の連続・同一性主義批判:ヌース理論の「位置の等化」概念を批判する


半田広宣氏の『2013:人類が神を見る日』を読んでいるが、「位置の等化」(p.202~p.203)に疑問をもった。そこの記述から見ると、主体と対象とを「等化」するということだが、これでは、完全な同一性化である。主体と対象の差異を否定して、同一性にしているのである。ここで、ヌース理論は、完全な連続・同一性中心主義、即ち、ファシズム全体主義になっていると言えよう。たいへん、危険な理論である。これは、個を否定する理論であり、オウム真理教に近くなると言えよう。とまれ、理論的には、ポスト・モダン以前である。そう、ヘーゲル哲学と同じである。だから、ヌース理論は、時代錯誤で、危険な理論であると言えるのである。 自然科学の衣を、いちおう、まとっているが、哲学的には、古臭く、たいへん危険なものである。

 ヌース理論は、現代のシャーマニズムに入れることができると思うが、問題は、半田氏の意識の媒介である。もし、オコツトと呼ばれる知的存在が、正しい理論を半田氏に伝えたとしても、半田氏の意識が媒介となっているので、そこには、連続・同一性が入りうるのである。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界には、連続・同一性の構造があるのであり、意識は、通常それに規定されていると考えられるのであり、半田氏の場合も例外ではないと考えられるのである。また、半田氏が、ドゥルーズ哲学の差異=微分論に注目して、特異性論に注目していないのを見ると、これが、信憑性をもつことになるのである。なぜなら、差異=微分論とは、まさに、連続・同一性の理論であるからである。

 ということで、ヌース理論は、半田氏の意識の連続・同一性が無意識に侵入していると考えられるのである。結局、オコツトが純正な理論を伝えてきたと想定しても、半田氏の連続・同一性のバイアスによって、原理論が、歪曲されてしまっていると言えるだろう。

 とまれ、差異が否定され、連続・同一性が明確に説かれているので、ヌース理論は、誤謬・錯誤の理論であると言えるのである。私としては、不連続的差異論/新プラトンシナジー理論に立って、再構築することを期待するのである。今のままでは、ヘーゲル哲学と量子力学との結合のフィクション的な似非仮説に過ぎないし、また、人を幻惑する妄想的似非仮説になっていて、邪悪な面もあるのである。

 読んでいると、たいへん魅力的である。おそらく、ある本質の領域に触れてはいるので、そうなのであるが、それが、誤って、連続・同一性化されていると思うのである。半田氏には、ヌース理論を徹底的に不連続的差異化することを、期待したい。そうでないと、理論としては、通用しないのである。また、倫理的には、人を誤誘導するので、悪徳的である。



補足:


『「半田広宣氏の NOOS 理論」の批判的検討』
テーマ:ヌース理論批判
コメントの「名無し」氏から、『■「半田広宣氏の NOOS 理論」の批判的検討』が紹介された。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015189659.html#c10026214737
その内容が妥当なものを含んでいると考えられるので、ここにリンクを貼り付ける。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/noos_cri.html