連続・同一性現象自我と差異の排除

連続・同一性現象自我と差異の排除


テーマ:自我/個


この問題も、何度も既述した問題で、解明されているのであるが、現象自我において、差異を排除することは、端的に何であるか、気になるのである。
 私自身の経験によれば、差異共振性が現象自我の成立を拒んでいた面がある。現象自我とは、この場合、言語的自我である。確かに、言語的自我(言語同一性自我)の形成は、初め、差異との結びつきを断ち切って、為されるように思える。そう、それは、正しいだろう。そして、普通は、そのまま、言語同一性自我のままであり、差異を排除したことに無意識である。ここに、言語同一性自我の本性の秘密があるだろう。差異を排除したことに無意識の現象自我。
 ここで、+エネルギーである連続・同一性力動の視点を入れよう。零度差異共振状態にある極性強度をもったメディア界において、+強度・+エネルギーが発生する。それが、連続・同一性力動となり、現象自我が形成されるのである。これは、零度差異共振シナジーが+強度にエネルゲイア化していると言えよう。即ち、+強度になったとき、メディア界は、差異共振性を喪失しているのである。そして、連続・同一性現象自我を形成するのである。つまり、+強度においては、差異共振性は無になるのである。これは、実に、危険な様態であろう。ここには、自我の力動だけがあるのである。他者は、否定の対象である。これは、ヤハウェに様態に相当するだろう。だから、ヤハウェ様態と呼ぶこともできよう。そして、現代、日本人やアメリカ人、他は、このヤハウェ状態になっていると思うのである。差異完全無の様態である。小泉首相が典型であろう。冷酷と言っても、機械のような無感情の冷酷さである。無機的な冷酷さなのである。これが、現代の精神病理の代表であろう。+強度の世界なのである。
 しかし、先に述べたように、メディア界は極性強度の世界であるから、当然、反作用で、−強度が作動するのである。これは、何かと言うと、不連続的差異共立の志向性である。つまり、+強度の連続・同一性現象自我がまったく解体されて、自我は、不連続的差異へと転換されるのである。もっとも、現象性自体が解体されるのではなくて、現象自我中心主義が解体されるのである。連続・同一性現象に没入していた自我が、解き放たれて、不連続的差異を志向するのである。しかしながら、連続・同一性現象自我の、言わば、慣性があるので、不連続的差異を志向する自我を、明晰に認識できないのである。というか、連続・同一性の構造があるので、不連続的差異への志向性は、反動化しやすいのである(参照:大澤真幸氏のアイロニカルな没入)。
 ここが一番のネックである。換言すると、構造主義の問題である。連続・同一性という構造主義の問題である。これは、言わば、無意識の構造であるから、ここから、超脱することは、きわめて、困難である。ここからの超脱を目指したポスト構造主義は、結局、孫悟空がお釈迦様の掌から逃れられなかったように、構造から逃れられなかったのである。デリダドゥルーズを見れば明らかである。構造に囚われていたのである。
 問題は、−強度が発して、自我は不連続的差異を志向しているのに、意識自我は構造に囚われたままであり、そのために、反動が強烈になるのである。現代の精神の様相がこれであると考えられる。精神分裂症が現代病理である。うつ病も基本的には似ていると思う。これは、一種悲劇的様相である。結局、差異を否定・排除・隠蔽する形をとるのである。最初の+強度は、純粋な連続・同一性であるから、差異は問題にならない。しかし、−強度になると、差異が主体となるので、分裂するのである。
 しかしながら、この分裂様態を突破できなくとも、誠実に生きることはできる。発生した不連続的差異ないし差異共振性に誠実であることはできるのである。これは、単独的個ないし単独的自我に忠実であることである。そう、ミクロコスモスである。
 他方、差異を反動的に否定・排除・隠蔽する近代的自我が多く存すると考えられる。これは何を意味しているのだろうか。私は、なにか、ここに不誠実、虚偽の精神を感じるのである。あるいは、不合理主義である。あるいは、弱さである。怯懦である。劣弱さである。
 もう少し、丁寧に考えよう。メディア界=差異共振界において、初めに、零度差異共振状態が生起する。ここにおいては、不連続的差異が共振して、共立しているのである。(直観では、ここが、前一神教の宗教の位置である。アニミズムシャーマニズム自然宗教多神教、等である。「縄文」文化は、正に、メディア界文化であり、日本語の母体がここにあると思うのである。主客一体型の日本語は、メディア界を考えるとわかりやすいのではないだろうか。日本文化、古神道とは、差異共振シナジー文化であろう。〈かつて、〉沖縄やアイヌに残っているのだろうし、地方・辺境にも残っているのだろう。)だから、極性エネルギーが発生する原点には、差異共振性があった。だから、連続・同一性志向性においても、差異は無ではなくて、存しているのである。だから、+強度においても、差異共振性が存しているのであるから、連続・同一性志向性において、本来、差異と同一性の闘争があるはずである。一種弁証法的である。換言すると、おそらく、母権主義と父権主義の闘争である、ギリシア悲劇に表現されたような。利己主義とは、この闘争を避けて形成された同一性中心の自我の性質だろう。(日本人には何と多いことか。)
 だから、やはり、ここにおいて、虚偽、欺瞞、偽装が発生するのである。差異を否定して、同一性を取るということである。これは、見栄、虚栄心でもある。この狡さの根因は何だろうか。やはり、弱さではないだろうか。以前に劣弱な差異と高貴な差異の区別を説き、男性が前者で、女性は後者であると述べた。おそらく、これは、生物的なものではないだろうか。男性の方が、女性よりも生命力が弱いのである。生命力というよりは、忍耐力、吟味力、熟慮性、精神性、等の性質だろう。忍苦能力である。そう、差異とは、差異共振性とは、いわば、共感性であり、感受性である。これが、弱いと、苦痛に対して、すぐ反動的反応を取るだろう。反射的反応である。反動性である。確かに機敏な行動を取るには、向いているだろう。しかし、これは、差異共振性を裏切っているのである。根源・原点にある差異共振性を裏切る行為である。そう卑劣さである。この反射的行為が反復されると、差異の否定が当然のことになっていく。そして、それに連続・同一性志向性が結びつくと、差異否定・排除・隠蔽が決定的になる。虚偽的な性格が形成されるのである。
 やはり、根因として、劣弱な差異性があると言えよう。差異共振性が劣弱であり、苦痛反射反応をするのである。ある意味で幼児である。特に男児ではないだろうか。
 とまれ、虚偽、邪悪さがあると思う、ここには。差異共振性を否定・排除するのが、当然であるという傲慢さがあるのである。この力学は何だろうか。反感性が基盤であろう。差異共振感性が基盤にある。しかし、共振感性は同時に、苦痛を受けやすい。だから、反感が生じやすい。この反感と連続・同一性が結びついて、差異を否定・排除する同一性自我が形成されると言えよう。
 とは言え、反感があっても、共感性があるはずである。それが、否定されるのはなぜか。どうも以前述べたように、トラウマ、心的外傷を考えないといけないようだ。共感性の冷暗化というようなことを以前述べたのである。トラウマ経験のために、差異共振性が冷暗化されたと考えられよう。それが、精神病理の根因であろう。
 では、それを引き起こす暴力は何なのか。根源の心的暴力とは何かである。フロイトなら、子が、父に母を奪われることと言うだろう。それは、一見もっともらしいが、私は、精神分析を批判しているので、それを取らない。これには、憎しみがある。ルサンチマンがあると思う。
 ここで作業仮説であるが、それは、差異零度共振様態において、+強度が発生する時に生起する、差異共振性に対する反感ではないだろうか。つまり、初めに、差異共振シナジーという歓喜がある。しかるに、+強度は、連続・同一性志向であり、差異共振シナジーを否定するのである。この否定作用において、憎しみ・ルサンチマンが、いわば、自然発生するのではないだろうか。だから、これは、自動無意識的な反応ではないだろうか。機械的、無機的ではないだろうか。+強度において、差異共振性に対して自然発生する反感が憎悪・ルサンチマンではないのか。そうならば、きわめて厄介である。自然過程であるから。だからこそ、人間は、戦争を止めないのだろう。
 とまれ、この自然憎悪・ルサンチマンがあるとして、やはり、根源の差異共振性は消えていないはずである。だから、いくら憎悪があっても、それに対する制御が本来利くはずである。しかしながら、憎悪・ルサンチマンが中心となる。これはどういうことなのか。それは、思うに、イデオロギーがあるのである。憎悪・ルサンチマン的現象自我を肯定するイデオロギーがあると思うのである。そのために、根源の差異共振性が作動しないのと考えられるのである。例えば、それは、宗教である。ナショナリズムである。政治イデオロギーである。例えば、イラク民主化のためというイデオロギーがあれば、差異共振性は麻痺して、憎悪・ルサンチマン的現象自我が肯定されることになるだろう。そう、これだと思う。イデオロギーである、これが、差異共振性を麻痺させて、憎しみのある暴力・攻撃的な現象自我人間を生むのである。現代日本で言えば、近代主義イデオロギーである。唯物論イデオロギーである。これが、傲慢・暴力的な自我を生んでいるのである。あるいは、宗教イデオロギーである。オウム真理教事件があったし、最近では、「摂理」である。アメリカでは、民主主義イデオロギーだし、キリスト教イデオロギーである。
 では、なぜ、イデオロギーに染まるのか、囚われるのか。あるいは、なぜ、イデオロギーを必要とするのか。思うに、これは、連続・同一性志向性にとっての、対象ではないだろうか。観念対象ではないだろうか。つまり、連続・同一性志向性にとって、同一化する対象が必要である。それがないと不安である。なぜなら、連続・同一性志向性であるのだから、なんらかの、同一性対象が必要なのである。それによって、差異共振性という他者から逃れて、自我同一性を確立できるのである。これは、明らかに、一種の目眩しである。差異をブラインドにして、同一性の対象に一致するのであるから。現代日本は、同一性社会である。差異を否定・排除・隠蔽するのである。また、一般に西洋文明はそういうところがあるだろう。連続・同一性志向性をイデオロギー志向性と換言できるだろう。
 結局、連続・同一性志向性の+強度に基づいて、「異物」である差異、差異共振性を排除・隠蔽するために、イデオロギーに染まるのである。これで、他者は消えるのである。意識から抹殺できるのである。しかしながら、他者は、現象界に存しているのである。これが脅威なのである。自己内の他者を否定・排除しても、外界に他者がいるのである。だから、この外界の他者を排除するために攻撃すると言えよう。アメリカの黒人差別がそうであるし、欧州のアラブ人排除もそうである。
 確かに、差異共振性とは、脅威であろう。アイデンティティ、共同体を破壊するからである。しかしながら、ここにこそ、精神の宝が埋蔵されているのである。結局、現象自我=連続・同一性自我が解体して、不連続的差異自我になって、差異共振シナジー=コスモスの宝庫が開かれるのである。