同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と

同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と差異自我


先に、同一性志向とイデオロギーが結びつくことを明らかにした。即ち、イデオロギーと連続・同一化して、原点の零度差異共振シナジー事象を、否定・排除・隠蔽する現象自我主義が生まれるのである。これは、また、父権的自我でもある。
 さて、このイデオロギー的自我とは、いったい何を求めているのだろうか。根源は、差異、差異共振性を避けたいという欲求があるのである。なぜなら、差異は、連続・同一性を脅かすからである。不思議の国のアリスのように、しょっちゅう、伸縮しているのは、連続・同一性自我にとり、脅威なのである。何か、確定した一定の見方があると安心なのである。有り体に言えば、差異、差異共振とは、厄介なのである。それに正対するには、知的・精神的エネルギーが必要なのである。つまり、エネルギー負担があるのである。
 否、どうも、先に説明はおかしいようだ。つまり、私は、差異共振性という原点があるから、連続・同一性化しても、それが残るはずであり、それを否定するのは、イデオロギーに同一化することによると述べたのであるが、イデオロギーに同一化するということ自体、差異・差異共振性を否定するのだから、イデオロギー説は、否定の説明にならないのである。つまり、やはり、差異・差異共振性を否定する連続・同一性志向性という+エネルギーが発生したと見る方が整合的であると考えられる。
 だから、端的に、メディア界の極性強度において、+強度・+エネルギーが発生して、差異・差異共振性を否定するということだろう。そうすると、+エネルギーの主体には、差異・差異共振性が欠落するということになるだろう。ただただ、純粋な+エネルギー=連続・同一性自我主義である。だから、これは、外部の差異・差異共振性を否定・排除・攻撃するだろう。どうも、これが、父権神話、例えば、バビロニア神話のエネルギー論的構造ではないだろうか。英雄マルドゥクが、怪物ティアマトを退治するが、後者はもともとは、女神・母神である。しかし、+エネルギーの自我にとっては、もはや、女神は、女神とは見えずに、怪物に見えるのである。これは、また、ギルガメシュ叙事詩でも、同様である。森の怪獣フンババは、本来、女神(イシュタル)であるが、英雄ギルガメシュたちには、もはや、怪獣にしか見えないのであるから、攻撃するのである。連続・同一性の盲目性と言ってもいいだろう。父権主義とは、差異・差異共振性に対して、本来的に盲目であり、理解できないと言えよう。これは、最高度に恐ろしいことである。しかし、これが、現実ではないのか。聖書のヤハウェは、正に、この典型ではないのか。帰結と言うべきだろう、おそらく。そうならば、この連続・同一性現象自我は、容赦なく、差異・差異共振性を破壊し続けることになるだろう。それが、本性であるからである。だから、ユダヤ教キリスト教に基づく文明は、連続・同一性現象自我主義(自我構造主義)によって、差異・差異共振性を破壊せざるを得ないと言えよう。
 換言すると、連続・同一性自我主義とは、自我自体を目的にする「思想」である。正に、連続・同一性自我主義が自体がイデオロギーなのである。だからこそ、傲慢で、独善的なのである。つまり、悪魔であることが、必然なのである。ここでは、自然は、利己主義であることである。そして、これが西洋文明を形成したのである。
 しかし、西洋には、この連続・同一性志向とは別の、差異・差異共振性志向の系譜があるだろう。これが、母権的な系譜である。聖母マリアの系譜である。女神の系譜である。古代ギリシアは、二重性である。結局、ユダヤキリスト教の連続・同一性自我主義の系譜と地中海的母権的差異・差異共振性の系譜が西洋文明にはあると考えられる。(プラトン哲学とは、後者を中心にして、洗練させた哲学であろう。)この二重性は、前者は、プロテスタンティズム、後者は、イタリア・ルネサンスとなって発現したと考えられるのである。しかし、実際は複雑で、原近代とは、後者の発現であり、差異・差異共振主義志向性なのであるが、前者的反動として、プロテスタンティズムが発生したと考えられるのである。そして、ルネサンス型資本主義ではなくて、プロテスタンティズム型資本主義が進歩的と倒錯的に考えられてきたのである。しかし、何度も繰り返すが、これは、反動である。(今日、反動が進歩と取られているのだ。)
 結局、以上のように考えると、差異・差異共振性の志向性の問題とは、これまでの考えよりも、複雑となるだろう。−エネルギー・−強度の発動があることは、確かである。それは、イタリア・ルネサンスから始まっていると考えられるのである。問題は、連続・同一性志向性の構造である。マイナス・エネルギーが発動しても、連続・同一性自我は、察知不可能であるだろう。なぜなら、それにとって、即自的に、差異・差異共振性は存在していないからである。そう、それが、狂気の原因である。近代主義、近代的自我、近代合理主義の狂気である。これは、先に述べた通りであるが、先の考え方よりも、明確になっているだろう。即ち、先には、連続・同一性の慣性を問題としたが、今や、連続・同一性自我構造自体が問題であるからである。これは、基本的に、無差異・無差異共振の構造であるから、差異・差異共振性というものがあることさえ理解できないのである。言わば、汎同一性論である。この点が、先よりも、理論的に進展しているのである。
 だから、問題は、この無差異・無差異共振性の連続・同一性自我構造における、マイナス・エネルギーの発動の意味なのである。これは、完全なる分裂である。接点のない平行二元論である。絶対的二元論である。絶対的分裂である。二重人格と言ってもいいし、また、多重人格ともなるだろう。そして、これが、現代社会の精神病理現象であろう。これは、実に、恐ろしい事態である。コスモスのエネルギーは、現代においては、マイナス・エネルギーの様相にあると考えられるが、プラス・エネルギーの形成した連続・同一性自我は、これに盲目であるからである。これは、同一性自我自身でも、わけのわからない事態であろう。つまり、同一性自我にとって、まったくの未知であることが起こっているのであるから。そう、物自体である。物自体が、同一性自我に、迫っているのである。思うに、この内在的な物自体が、投影されて、他者攻撃となるのだろう。
 結局、マイナス・エネルギーによって、不連続的差異化が生じる。それは、メディア界のイデア極への志向性である。そして、それによって、差異共振性が発生するのである。ここで、同一性自我から転換して、差異自我へ転換する必要があるのである。では、同一性自我と差異自我とは、どう関係するのだろうか。その接点は何なのか。有り体に言えば、どうやって、同一性自我から差異自我を形成できるのか。同一性自我は、無意識のうちに、発生する差異自我を否定・排除・隠蔽するだろう。これは、仏教、フッサール現象学、東洋身体論、等の問題である。同一性自我のエポケー(判断停止)が必要であろう。そして、能動的な思考(スピノザ)を形成する必要があるだろう。
 私見では、この転換には、感性・身体性の変容が必要なのである。同一性自我は、心身を分化させた。精神と身体に分離した。しかし、差異自我・差異共振自我は、これの再結合である。だから、感性・身体性の変容が必要なのである。いわば、物質的身体・肉体を、心的身体、精神的身体に変容する必要があるのである。
 結局、同一性自我と差異自我との接点・仲介とは、感覚身体にあると言えよう。この感覚身体において、同一性自我と差異自我とが交流するのである。(ここで、感覚身体性を感身性と略して、造語しよう。)
 とまれ、近代主義の同一性自我主義は、差異自我への転換方法を知らないから、ますます、狂気的に反動化するのである。それが、アメリカの覇権主義である。結局、一神教を、聖霊教に変換する必要があるだろう。ポスト一神教である。
 

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聖霊コスモス教を提唱する

ポスト一神教、また、これまでの宗教の超克として、聖霊コスモス教を提唱する。これは、ユダヤ・キリスト・イスラム教の超克でもある。東西の宗教を超克し包摂するものである。
 これは、D.H.ロレンス宗教哲学でもある。