ルネサンスとプロテスタンティズムの構造力学:差異と同一性の対立構

以下は、次の論考の後記を独立させたものです。


「同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と差異自我」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015772189.html


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補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
 プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
 それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
 だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なプラス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
 では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
 ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
 だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤキリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
 では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「理念」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
 以上で、本件の補足説明としたい。


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以下は、以上の内容への後記である。


p.s. 本稿に関して、より精緻に論考する必要があるが、ここでは簡単に触れると、キリスト教は、ルネサンスの発動に確かに反動的であったと、基本的には言えるが、しかし、実際は微妙である。
 おそらく、ルネサンスの力動を受けたキリスト教は、思うに、それを聖霊の力動として受け取った面があると思うのである。これが、始原的なプロテスタンティズムだと思われるのである。聖霊という点で、ルネサンスの差異共振性を受容したと思うのである。この点は、反動ではなくて、能動的であると言えよう。
 たとえば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、プロテスタンティズムの人間の典型像として、かつて、取り上げられたが、そこにあるのは、聖霊主義ではないかと思うのである。だから、ルネサンスプロテスタンティズムの積極的接点として、聖霊性=差異共振性があると思うのである。