狂人は、自分が狂人であることを認識できない:いかに狂気を乗り越え

狂人は、自分が狂人であることを認識できない:いかに狂気を乗り越えるのか


後で検討したいが、大江健三郎のエッセイで、『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』
http://www.ops.dti.ne.jp/~kunio-i/personal/oe/oebook.html#wareranokyouki
があったが、私が思っているのは、「我らの狂気」ではなくて、近代主義の狂気をどう乗り越えるかである。
  私は何年も前から、近代的自我は、狂気であるという論を証明しようと努力してきたが、今や、それは、正しいことが証明されたのであるが、では、実際、どうやったら、この狂気の現実を乗り越えることができるのかが問題である。とは言え、近代化とは、無意味であったのかと言えば、そんことはないだろう。でも、なんという犠牲を生んだことだろう。
 近代化を評価するなら、それは、何と言っても、個を形成したことだろう。デカルトである。コギトである。単独的自我の形成である。しかし、すぐに、これが、近代合理主義・唯物科学へと転換されてしまい、狂気を生んだのである。この二重性を直視しないといけない。単独的自我の形成、これこそ、近代のエッセンスである。そして、近代合理主義・唯物科学という狂気に道を拓いてしまったのである。悲劇的近代としか言いようがないだろう。
 しかし、デカルト以前、イタリア・ルネサンスの原動力は、実は、単独的自我だと思われるのである。いわば、デカルトが定式化したように思うのである。そう、デカルトは、いわば、ルネサンスプロテスタンティズムの二重性を代表していると言えよう。
 とまれ、単独的自我を近代合理主義へと転化せずに、進展させることが至難であったのである。これは、主に、詩人、哲学者の担ったのである。デカルトからの最初の進展は、スピノザであり、その次は、カントであった。決定的進展は、ニーチェであった。そして、フッサールであった。そして、文学者では、ヘルダーリンD.H.ロレンスであった。結局、20世紀前半で頓挫してしまった形である。フランス・ポストモダンの流行現象は、反復ではあったが、未熟であった。
 結局、その間、政治・経済の現象界は、近代合理主義という狂気が発展したのであり、今も、グローバル資本主義という狂気の経済が駆動しているのである。ブッシュ/小泉狂謀コンビが登場したのである。マスコミは、当然、狂気のマスコミである。狂気が世界を支配しているのである。
 しかし、2004年、Kaisetsu氏との遭遇により、いわば、奇蹟的な理論、不連続的差異論が生まれたのである。これこそ、失われた単独的自我の真の近代の理論の創造的発展であったと考えられるのである。
 結局、この理論そして進展形態であるプラトニック・シナジー理論によって、狂気の近代主義を乗り越える地平が開けたと言えるのである。
 しかし、この理論を理解している人が、どれほどいるのか。この理論をさらに発展させ、普及することが、狂気の近代主義・唯物科学を乗り越える実践的方法であるということだろう。そう、この理論は、近代主義的理論をほぼ全滅させるだろう。近代主義の書物を反故にするだろう。これは、超知的革命なのである。超ニーチェ的理論なのである。超破壊的超創造的理論である。この理論を理解した人は、至福、至上の歓喜を得よう。超至高・超最勝の理論である。