民主主義批判:劣弱差異と優強差異:サル人類とコスモス人類

民主主義批判と差異共振共立政治へ向けて:劣弱差異と優強差異:サル人類とコスモス人類


テーマ:ポスト民主主義/差異共振シナジー政治


民主主義は、国是であるし、国際的な世界的価値観なので、批判しにくいが、あえて、試みたい。
  民主主義は、成人の国民に、平等に、直接ないし間接の選挙権を与えること、そして、過半数選別の原理が基盤であると言えよう。実効的な、国民平等の原理がここにあるのである。つまり、ここには、同一性の原理がはたらいているのである。国民は、一人一人平等=同一性ということである。
 しかし、不連続的差異論によれば、個とは、差異・特異性・不連続的差異であり、絶対的不平等である。原理として、不平等原理である。差異原理である。(p.s. プラトニック・シナジー理論は、差異共振シナジーを提唱するので、単純な差異原理ではない。差異共振原理である。)
 ここからして、民主主義批判が生じる。これは、政治学社会学の問題であるが、私は、差異の視点から考察したい。
 やはり、ニーチェが、ラディカルな問いを発している。それは、『道徳の系譜』である。ここで、ニーチェは、人間の優劣を位階性をはっきり主張している。私は、これを、二年前には、劣弱な差異と高貴な差異というように区分した。そして、なんとか、一元論的に説明しようとしたが、うまくいかなかった。最近も、極性エネルギー論で考えて、近代主義批判として、整合化できたが、しかしながら、何故、ある人は、差異主義であり、ある人(サル人類)は、同一性主義なのか、その説明がつかないのである。
 これは、結局、根本的に、少なくとも二種類の人間がいると考えた方が、合理・整合的なのである。すなわち、 劣った弱い主観性の持ち主と勝れた強い主観性の持ち主がいるということである。こう考えると、すべては、整合的に説明がつくのである。そして、今日、世界・日本は、狂気が支配しているが、結局、考えると、前者の人間が支配者の位置についていることからきているのだし、それを民主主義で選挙した同類の国民がいることからきているのであるし、それを煽っている同類の(、もっとも、より邪悪ではあるが、)マスコミがいることから来ているのである。つまり、今日、前者の人間が支配して、狂気・破滅主義の世界を作っているのである。結局、民主主義は、これに対して、ブラインドなのである。首相のセリフ「個人の自由」になるのである。(また、「個人」という言葉であるが、この場合は、あいまいであり、同一性自我でもあるし、個(差異)でもありえる。とまれ、首相の言葉はあまりに軽々し過ぎると言わざるをえない。)
 結局、私の、現段階の結論は、ポスト民主主義として、差異位階主義・差異ヒエラルキーが必要であるということで、まさしくニーチェ主義である。ニーチェナチスに利用されたと言われるが、ナチズムは、民主主義から生まれたのである。
 差異位階主義は、較差主義ではない。新イデア論である。根源的なイデア界を認めることが、正気の世界をもたらすと考えられるのである。ポスト民主主義としての新イデア論イデア論的政治である。だから、イデア論的政治家、イデア論的国民を形成していかないといけない。イデア論的差異政治主義である。

p.s. 補訂すると、成人の国民に平等に選挙権を与えるというのは、同一性の原理、すなわち、近代主義の原理そのものである。おそらく、これは、最低線と見るべきなのだろう。これは、認めるべきだろう。だから、私が言いたいのは、このベースを基にして、差異主義へと転換しなくてはならないということである。民主主義の超越包摂(以下、超包)としての差異政治主義を唱えているのである。超包民主主義である。あるいは、差異民主主義である。
 思うに、近代主義は、民主主義、近代合理主義(近代科学・唯物科学)、近代的自我(同一性自我)を生み出したと言えよう。新イデア論的差異主義とは、これを超克することを説いているのである。つまり、近代主義は、今や、限界を通り越して、狂気となっているのである。超包近代主義である。

p.p.s. 以上を少し整理すると、民主主義は、同一性の政治原理であり、ここには、差異の視点は、原理的には欠落している。ここで、民主主義批判が成立しよう。しかし、民主主義は、いわば、経済で言えば、貨幣経済のようなものであり、貨幣制度は、廃止できない。つまり、同一性原理は、社会の基盤として認めざるをえない。
 というように考えると、近代主義は、同一性原理の完成であると言える。これは、社会の基盤を保証する原理であると言えよう。これは認める。しかし、差異の視点がないために、今日、反動・狂気化しているのである。だから、同一性主義・近代主義を乗り越える思想・理論・原理が必要になっているのである。即ち、超越包摂近代主義・民主主義=新イデア論的差異主義が考えられるのである。


参考:『道徳の系譜

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003363949/sr=8-1/qid=1156121950/ref=sr_1_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=gateway
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■精神的弱者と精神的強者

簡単に言えば、こうなるのである。前者は、抜け目ないから、支配するのである。狡猾なのである。悪魔の狡猾さである。悪賢さとずる賢さである。
renshi (2006-08-21 10:54:17)

小泉首相は、劣弱な主観性の持ち主か?

この点で、私の考察は、難点を呈するようだ。小泉首相は、決して弱い主観性の持ち主ではない。異常な主観性の持ち主ではある。どう見たらいいのかと言えば、いちおう中間的な人間とは言えるが、主導的なのは、劣弱な主観性であると言えよう。
renshi (2006-08-21 12:07:13)

■劣弱な差異・主観性だから、反動・狂気化するのだろう。

小泉首相の場合、基盤は、劣弱な差異・主観性である。だから、反動・狂気化すると考えられるのである。
 もし、優強な差異・主観性があれば、反動性を帯びても、それに距離をもつ精神性が生じるのである。反動性への懐疑が生じるのである。
 だから、小泉首相の場合は、劣弱な差異・主観性の持ち主であるというのが正しいのである。
renshi (2006-08-21 12:17:01)

小泉首相は、劣弱な差異・主観性の裏返しの蛮勇である。本文無し

本文無し。
renshi (2006-08-21 12:18:48)

■しかし、劣弱な差異と優強な差異は平行線ではないか:次元が異なるのであるから

とは言え、劣弱な差異には、優強な差異は認識できないという一種不可知論があるのである。
 だから、単純に差異民主主義にはなりえない。二つの人類の存在。二つの差異の人類という超根源的な問題がある。ニーチェは超天才である。生物学的には、人間類であるが、差異・質的には、異なる二種類の人類が併存しているのである。
 サル人類とコスモス人類である。質的に異なる個体に、同一性の原理(民主主義)を適用できるのか。喩えて言えば、火星人に民主主義が適用できるのか。
 民主主義は理想主義的である。差異共振共立主義が必要だろう。差異共振政治である。差異共振精神において、差異は、共振し、共立するのである。やはり、ポスト民主主義として、差異共振共立政治、差異共振共立主義、簡単に、共振共立主義である。