近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係につ

近代的自我と言葉の関係:言語とは何か:言語とメディア界の関係について


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


「初めに言葉ありき」とは、あまりに有名なヨハネ福音書の冒頭の言である。しかし、何度も既述したが、原語のギリシア語では、「初めにロゴスありき」なのである。「言葉」と「ロゴス」は、一般に、同じものを意味していると考えられている。しかし、誰が見ても、両者、異なるのである。
 英語の欽定聖書やドイツ語のルター訳聖書では、「言葉」と訳(誤訳)されているのである。近代主義とは、精神的には、ここから発したと言ってもいいくらいだと思われるのである。


Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000) English: King James Version German: Luther (1545) English: New Revised Standard Version
John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort. In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον The same was in the beginning with God. Dasselbige war im Anfang bei Gott. He was in the beginning with God.
3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν All things were made by him; and without him was not any thing made that was made. Alle Dinge sind durch dasselbige gemacht, und ohne dasselbige ist nichts gemacht, was gemacht ist. All things came into being through him, and without him not one thing came into being. What has come into being

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次は、仏語版である。


Greek NT: Byzantine/Majority Text (2000) French: Louis Segond (1910) French Jerusalem Bible French: Darby
John 1 [Commentary]
1. εν αρχη ην ο λογος και ο λογος ην προς τον θεον και θεος ην ο λογος Au commencement était la Parole, et la Parole était avec Dieu, et la Parole était Dieu. Au commencement était le Verbe et le Verbe était avec Dieu et le Verbe était Dieu. ¶ Au commencement était la Parole; et la Parole était auprès de Dieu; et la Parole était Dieu.
2. ουτος ην εν αρχη προς τον θεον Elle était au commencement avec Dieu. Il était au commencement avec Dieu. Elle était au commencement auprès de Dieu.
3. παντα δι αυτου εγενετο και χωρις αυτου εγενετο ουδε εν ο γεγονεν Toutes choses ont été faites par elle, et rien de ce qui a été fait n'a été fait sans elle. Tout fut par lui, et sans lui rien ne fut. Toutes choses furent faites par elle, et sans elle pas une seule chose ne fut faite de ce qui a été fait.

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尚、文字の着色は、筆者による。

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 問題は、連続・同一性自我と言葉・言語の関係である。これまで、既述したように、同一性と言葉・言語とが、いわば、一致・一体化するのである。つまり、同一性自我・近代的自我と言葉・言語とが、結合するのである。この結果生起する同一性言語自我・近代的言語自我(ラカン象徴界は、言語自我界であり、ここと一致するだろう。)は、差異を否定・排除・隠蔽する様相となっているのである。ここで、差異とは、メディア界・差異共振シナジー相・心身性・精神である。 
 結局、近代合理主義・近代的自我・同一性言語自我とは、差異を排除して成立しているものである。そう、近代的自我とは、言語と結合することで、強固な内在超越論的連続・同一性構造を形成していると言えるだろう。換言すると、プラス・エネルギーと言語とが結合しているのである。この近代的同一性言語は、差別的な言語であり、主体の差異・他者と同時に、外的な差異・他者を差別・排除するのである。思うに、ナショナリズムや宗教はここと結びついているので、暴力・攻撃的に排外的なのである。(参照:石原都知事小泉首相、等々、国粋主義ナショナリズムの面々)
 とまれ、言語と一体化している近代的同一性自我についてであるが、それは、独断・独善的自我中心主義である。「自己中」である。自己盲目であり、妄想・妄念・妄言的である、小泉首相のように。
 そう、先に述べたように、内部環境がプラス・エネルギーの場合は、これが、能動的であったと言えようが、今日のような「ポストモダン」状況では、マイナス・エネルギーが賦活・活性化されていると考えられるので、この近代的同一性言語自我は、反動狂気様態になっているのである。
 では、言語と差異との関係を見る必要がある。明らかに、差異は、言語ではない。あえて言えば、差異とはロゴスである。「理」である。ただし、近代合理主義の「理」ではなく、メディア界・差異共振シナジー界の「理」である。これは、心身・精神的「理」である。だから、言語は、これを、直截に把捉できないのである。言語の他者としての差異なのである。だから、ヨハネ福音書の冒頭の「ロゴス」=「理」を、「言葉」・「言語」と訳すのは誤訳であることが、これで証明された言えよう。ロゴスと言葉は、まったく別のものであり、メディア界・メディア平面・差異共振シナジー界の「ロゴス」=「理」と、現象界の同一性形式である言語との混同が、西欧近代において形成・確立されたと言えよう。そして、極論すれば、その結果、主体意識において、内在超越意識が喪失されて、現象界中心主義(=唯物論)になったとも言えよう。(この内在超越界の取り戻しは、芸術では、ロマン主義以降の運動、そして、哲学では、スピノザ、カント、ニーチェフッサールウスペンスキー、他によって為された。また、日本では、西田幾多郎鈴木大拙によって為されたと言えよう。私としては、在野の根井康之氏を含めたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10001141893.html
http://shop.ruralnet.or.jp/search_result.php?mode=detail&id=011706&b_no=01_454083021X


 結局、現代において、言語と差異とが矛盾する事態となっているのである。私は、以前、ポストモダンとは、言語からのズレのことを意味するのだと、戯れに、仲間に言ったものである。そう、このズレが、心身・精神性なのである。そして、これを、さらに、不連続化して、差異共振シナジー相の純粋なメディア界・メディア平面が発生しうるのである。
 問題は、どうやって、このズレを気づきさせるのか。ここに大きなポイントがあると言えよう。差異をどうやって、気づきさせるのか。これが、わかれば、精神意識革命が生起するのである。「こころ」と言われているものは、まだ、連続観念をもっているので、危険だと思う。ズレを不連続的単独化する必要があるのである。「犀の角のように唯独り歩め」。そして、このズレの心身性を、不連続化し、また、スピノザの能動的観念化する必要があると思うのである。つまり、差異・心身性という言語からのズレを不連続且つ能動的観念化すること、これで、不連続的差異論精神意識革命が発生するはずである。つまり、不連続的差異的能動的観念論である。これで、心身は、自我は、イデア界に達して、純粋メディア界・差異共振界を形成するのである。
 また、問題は、どうやって、言語とのズレ・差異を発生させるのかということがある。ここにすぐれた芸術の役割があるだろう。すぐれた芸術は、心身・精神・差異を賦活させるのである。バッハ芸術、シューベルト芸術、トルストイ芸術、芭蕉芸術、セザンヌ芸術、D.H.ロレンス芸術、等々である。また、すぐれた哲学もそうである。スピノザ哲学、ニーチェ哲学、フッサール哲学、ウスペンスキー哲学、仏教を含めた東洋哲学、他。精神的点火をもたらす芸術・哲学・思想・宗教が、すべてである。
 また、自然との単独的触れ合いが重要である。自然は、言語とのズレ・差異を、永遠に喚起するだろうから。