戦後近代主義/唯物主義の超克:人類の終焉とポスト人類的進化

戦後近代主義/唯物主義の超克:人類の終焉とポスト人類的進化:近代主義と民主主義:同一性民主主義と差異民主主義


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


これまで、近代的自我批判を徹底して行い、その構造の問題点をあげて、批判解明したと考えている。
 これは、簡単に言えば、アメリカ化である。そして、世界全体がそうなっている。問題点は、近代的自我・近代的合理主義は、ほとんど唯物論であることである。いくら、なんらかの宗教や道徳を信条としても、そうなのである。これは、どういうことなのだろうか。
 これは、不連続的差異論が解明したところによれば、自我連続性によると言えるだろう。連続・同一性自我=近代的自我は、本質的に、唯物論となると言えよう。つまり、連続・同一性形式が物質形式なのであるからそうなると言えよう。ここでは、差異共振性=精神性が否定・排除されるのである。ここでは、他者の蹂躙が日常茶飯事である。他者・差異否定が恒常的なのである。ここでは、暴力が蔓延して、安らぎがないのである。ホッブズの世界である。
 この近代的自我・唯物論の世界を、いちはやく、シェイクスピアは、悲劇に描き出している。とりわけ、『リア王』である。リア王の長女・次女、そして、エドマンドが、近代的自我・唯物論者である。そして、多くの天才的作家や哲学者等が、この近代という悪魔性を問題にしたのである。しかし、結局、彼らが、勝利してしまったのである。悪の勝利、これが、現代の意味である。
 これは、確かに、人類の終末というに相応しい事態であろう。人類の終焉である。
 そして、私見では、新たな進化が起こるのである。ポスト人類的存在、超人類的存在が、創造されるのである。
 問題は、どうしたら、この進化を実現させていくのかである。現代は、退化する人類と進化するポスト人類の戦いであるが、どうやって、後者を進展させることができるのか。天変地異? 大洪水? 地軸の変化? その可能性はあるとは思うが、私は認識的変容の方法を考えたい。イデアシナジー理論は、そのようなものであるが、ここでは、近代化の意味を再確認したい。
 おそらく、生の意味が根本的に変容したのである。自我の生命や存在が重要になったのである。私見では、近代以前は、メディア界的道徳性が作動していたが、これが、近代的自我主義によって、喪失したのである。近代的自我・近代合理主義革命があったのである。これは、人類史における巨大な革命であったと言えよう。それまで、自我以外のものに価値観があったが、それが無くなって、自我が価値基準となったのである。やはり、デカルト哲学の問題である。コギトの問題である。
 プラス・エネルギーが同一性・二項対立自我を生んだ。しかし、私の疑問は、そのように機械的に精神性を排除する同一性・近代的自我が形成されるものなのかということである。そう考えると、また、以前の議論に戻って、高貴な差異(微差異)と劣弱な差異(粗差異)の相違の問題となる。シェイクスピア悲劇は、前者が知的劣化して、後者の知的優勢の下に、前者が貶められることに存するのである。ここでの知性とは、当然、近代合理主義知性、唯物的知性、現象界的知性である。
 ここで、もう一度、ルネサンスを考えよう。これは、差異が根源であると私が考えている。つまり、本来、ルサンス的「近代」とは、イデア界から発現しているのである。しかし、これが、同一性的反動を受けて、近代的自我となるのである。そう、ちょうど、ヤハウェのような事態がここにはあるのである。つまり、ルネサンスからプロテスタンティズムへの反動的移行のことである。
 では、イタリア・ルネサンスの場合、どうして、反動化しなかったのか。一つ言えるのは、イタリア文化には、高貴な差異が存していたということだと思う。イデア界的発動と高貴な差異の存在、これが、イタリア・ルネサンスを生んだと考えられるのである。それに対して、劣弱な差異が存在して、プロテスタンティズム的反動同一性自我が形成されたと考えられるのである。地理・文化的には、南と北の違いである。
 ここで、想起するのは、イギリスの作家D.H.ロレンスが、イタリアを好み、イタリアの先住民であるエトルリア文化について書いたことである(『エトルリアの故地』)。私見では、エトルリア人は、ほとんど、東洋的精神をもった民族である。アジア的精神をもった民族である。そのようなエトルリア人古代ローマ人は制服したのである。どうも、これが、ルネサンスプロテスタンティズムとの関係と少し似ているように思えるのである。ジェンダー論的に言えば、母権文化と父権文化の闘争である。そして、後者が勝利してしまったのである。
 これは、イデアシナジー論から言うと、零度共振性とプラス・エルぎーの闘争である。そして、力学的に、後者が支配した。そして、現代に帰結したのである。しかし、先に、何度も既述したように、現代は、マイナス・エネルギーが賦活されていると考えられるのであり、それが、同一性自我・近代的自我に作用して、後者は反動狂気の様態になっていると考えられるということである。そう、私が、近代的自我の狂気を糾弾しているが、それは、実は、反動化された近代的自我、反動狂気化した近代的自我と見るべきなのである。ということは、黎明は近いのである。日本、世界は、漆黒の闇にあるが、この悲劇的闇を超えれば、光明が訪れるのである。狂気・悪魔は自滅するのである。


Darkness will turn into Light.


p.s. 近代主義(批判)と民主主義の関係が、本質的に重要な問題となるだろう。言い換えると、近代的自我・近代合理主義と民主主義の関係である。これは、実に根源的な問題である。つまり、有り体に言えば、前者は、エゴイズム・自己中心主義・利己主義であるのに対して、後者は、個人主義・共存主義・精神主義である。極言すれば、正反対と言っていいのである。これは、大変な問題だろう。両者は、近代主義に括られるのが、これは、理論的に支離滅裂である。民主主義の平等原理とは、個人に平等の権利を認めるということである。これは、個人主義をベースにしていると言えるだろう。しかし、問題点は、先に、民主主義批判をしたが、同一性原理にあると言えよう。平等が曲者なのである。つまり、民主主義の平等主義とは、形式的には、同一性形式であるが、内容的には、個人・差異主義であることである。つまり、民主主義は、同一性と差異との一種妥協であると言えるだろう。
 積極的に理解すれば、平等とは、個人が特異性としては、平等であると言えるだろう。Aさん、Bさん、Cさん、等々は、特異性としては、平等である。つまり、不連続的差異論/イデアシナジー理論から見ると、イデア界的存在としては、各特異性は平等である。ただ、現象界的平等とは、同一性となり、近代的自我・近代合理主義と結合するのである。つまり、民主主義概念とは、同一性と差異との、正に、中間的概念と言えよう。そう、同一性と差異との折衷なのである。これは、換言すると、ルネサンスプロテスタンティズムの二つの近代の問題とつながるのである。前者は、差異主義であり、後者は、その反動的同一性であるからである。民主主義は、だから、ルネサンスプロテスタンティズムの二重性をもっているということができるのである。この二重性が、キーポイントである。これまで、民主主義は、この点を識別・弁別しないできたと言えよう。そして、近代的自我・近代合理主義の発展は、民主主義の同一性の側面を強化して、差異性を喪失してきたと言えよう。その典型が、USのイデオロギーの民主主義であろうし、日本の同一性の民主主義である。
 不連続的差異論の観点からは、当然、同一性民主主義の超克、そして、差異民主主義の提唱ということになるだろう。近代的自我・近代合理主義の狂気・傲慢とは、同一性民主主義と結びついているのである。ルサンチマンである。憎悪・侮蔑・傲慢である。