自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的

自己愛性人格障害と近代的自我:超越的連続・同一性構造と超次元知的存在の新創世記


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


自己愛性人格障害境界性人格障害に関しての説明を少し読んだが、根本において、親から見捨てられる不安から、発症するように思えた。
 以前、近代的自我の発生に関して、「心」の冷暗化を仮説したことがあるが、このような不安は、一種「心」の冷暗化に関係すると言えるだろう。私は、理論的に突き詰めて、では、何故、親、この場合は、母親は、このように子供に依存するのかである。やはり、親自身の問題であり、親の「心」の冷暗化の原因を考えなくてはならない。
 結局、個・自我としての自律の問題である。「我在り」ないし「我思う」の問題である。不連続的差異論dd論から見ると、メディア界の問題である。言い換えると、自我存在の基盤の問題である。
 デカルトは、コギトに基盤を求めたのである。しかし、デカルト哲学の問題は、やはり、メディア界の問題だと思う。コギトは、原点としては、メディア界を含むだろうが、近代的自我となると、メディア界を排除することになるのだ。コギト→近代的自我の移行には、メディア界の排除があるのである。だからこそ、ここには、暴力があるのである。自他への暴力である。そして、ここに、自己愛の問題が発生すると思えるのである。これまで、既述したように、自他の他者・差異の否定・排除・隠蔽である。しかし、これは、極性力学に拠るのであり、必然である。問題になるのは、マイナス・エネルギーが賦活されて、反動化するときである。つまり、賦活される差異を容認しない、反発的な、否定的な姿勢をとるときである。
 問題は、何故、差異を容認しようとしないのかである。確かに、差異は、同一性自我の体系を破壊・解体するのであるから、同一性自我にとって、たいへん不安である。同一性自我である近代的自我自体が、差異を否定しようとするのである。
 現代、自己愛性人格障害が起こるのは、差異を否定する強固な同一性自我が存するからである。私は、近代的自我の反動態として見ているのである。これまで述べたように、「ポストモダン」様相とは、マイナス・エネルギーが賦活され、差異の志向性が発動するので、その発動に対して、同一性自我=近代的自我が、反動的に否定的な反応を起こすのであり、この反動的否定反応こそが、精神病理なのである。
 また、これも既述したように、差異を否定する唯物論文化が主導的なので、差異を肯定する「教養」がないので、差異への受容力がなくなっていることも、一因であると考えられるのである。そう、だから、結局、ポスト・近代主義の発動という実在的な主観・主体的環境における、近代主義の「末期症状」であると見ることができるのである。問題が複雑化しているのは、いわゆる、ポストモダンの運動が挫折したことで、ポスト・近代主義の視点を喪失して、近代からのエクソダスの地平がなくなり、近代主義の反動様態が支配していることである。ポストモダンポスト構造主義で、夜明けが来たかと思えたが、それは、中途半端な光であり、そのため、真のポスト・近代主義へのブレークスルーにならなかったのである。
 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の観点から見ると、この近代主義の大反動様態は、理論・知の衰退に大きく存していると思う。有り体に言えば、現代を批判解明し、未来を切り開く理論・知が欠落していることである。これは、明らかに、衰退路線である。
 近代的自我は、無反省のままで、継続していて、自滅へと進んでいるのである。
 そう、まったく、プラトンの洞窟の影像に見入っている反動様態である。狂気ではあるが、妄想狂気(妄狂)自我相である。近代合理主義=唯物論の傲りの結果である。また、カント哲学の限界に拠るとも言えよう。物自体の合理性・ロゴスをカントは理論化できなかったのである。それは、フッサール現象学が行ったのであるが、ハイデガーがそれを後退的に隠蔽してしまったのである。物自体の合理性とは、超越論的主観性、志向性、ノエシスノエマ間主観性、生活世界である。そして、さらに、それを空間化したのは、ウスペンスキーであったのであるが、これらが、アカデミズムにおいて、無視されてしまったのである。というか、哲学分野での、知的劣化・衰退があるのである。
 思えば、デリダドゥルーズは、後、一歩という境界点で、物自体の世界へとブレークスルーすることができなかったのである。ニーチェフッサールウスペンスキー西田幾多郎鈴木大拙、他の始動的ブレークスルーを継承できなかったのである。そして、また、量子力学も、近代唯物科学の枠に留まったままである。
 結局、これまでの結論を繰り返すしかないが、連続・同一性内在超越構造を徹底して解体する方法しか、真のブレークスルーはありえないのである。ユダヤキリスト教、近代的自我、唯物論・唯物科学、ポスト構造主義、資本主義、これらは、この超越論的構造を維持したまままである。


この超越論的連続・同一性構造の解体・破壊にしか、未来は存しないと断言できるのである。


 不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によって、この
超越論的絶対的差異進化が生起すると言えるのである。これは、東洋も西洋も超越した進化である。


そう、今や、
プラトニック進化が、人類に襲来したのである。これまでの人類は猿人類と退化するだろう。


超次元人類の新創世記のエポックである。


NEW GENESIS OF SUPERDIMENSIONAL INTELLIGENT BEINGS


来るべきものが来たのである!!!