同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論

同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


自己愛性人格障害という名称は、生ぬるいと思う。自我狂気病(同一性自我狂気症)と呼ぶのが適切・的確だと思う。現代、この自我狂気病ないし自我精神病が蔓延している。この自我精神病について、再考したい。
 先に、「揺らぎのない芸術は情操を高めない」というタイトルで、記事を引用したが、自我狂気病は、確かに、「揺らぎ」がない。「揺らぎ」とは、本来、メディア界がもたらすものである。だから、これまで、差異(メディア界)を否定・排除・隠蔽する同一性中心自我の様態にぴったりとあてはまると言えよう。
 これまで理論的解明をしてきたが、やはり、この絶対的否定の原因が、よくわからないという思いがするのである。というか、不思議な感じがするのである。
 とまれ、具体的な事象で考えよう。揺らぎの有無が出たので、考えると、現在、流行しているような若者の歌には、揺らぎが欠落している。そう、若者だけでなく、いわゆる、演歌歌手の歌にも、揺らぎが欠けている。いわば、頭だけで歌っているのである。頭とは、この場合、近代的自我の頭と考えられるのである。差異・メディア界の揺らぎがないのである。これは、音楽で言えば、直接的に、響きの質の問題である。響きの質に揺らぎがないということである。共振シナジー相が排除されているということである。
 どうも、何か洗脳されている向きがあるのである。本当の歌を、生産せずに、同一性の似非歌を生産しているのである。これは、当然、同一性の自我を発生させることになる。
 ここには、観念の問題がある。言語観念である。思うに、観念は、二つはある。メディア界的観念と言語観念である。(イデアとは、本来、前者である。これは、ヴィジョンに近い観念と言えよう。また、私が先に、ウィーンフィルベルリンフィルの相違について述べたが、ここの問題と一致する。)言い換えると、差異観念と同一性観念の違いである。結局、歌の観念が、現代、後者、同一性観念になっているということである。歌の声が、同一性観念になっているということである。これは、結局、貨幣と同じである。
 
ナルシス
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Narcissus.jpg

 同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。ここで、留意すべきは、陰が否定されたのではなくて、差異が否定されたことである。対極性が否定されたことである。天と地との二元論は、天を優位にしても、地を優位にしても、同形である。ここにあるのは、差異、差異共振、差異極性の否定である。
 しかし、これまで、述べたように、マイナス・エネルギーが作用すると、再び、差異が発動するようになるのである。これは、超越論的領域に起こるのである。つまり、超越論的同一性形式の場に、差異が発生するのである。つまり、それまで、同一性の構造であった場(超越場、内在超越場)に差異の構造が発現するのである。これは、たいへんの事態である。つまり、それまで、アリストテレス形式論理学の「帝国」に、対極性・即非の論理学・ターシャム・オルガヌムが出現するからである。これは、大事件である。正に、革命的事件である。この差異再発の事件こそ、ポスト近代の事象であると考えられるだろう。当然、自我は、混乱するのである。自我に差異という怪物が急襲したのである。これが、本当のポスト・モダンの意味である。いわゆる、ポストモダンは、真正のポスト・モダンの応急処置のようなものではなかったか。真正ポスト・モダン(ディープ・ポストモダン)とは、ニーチェ哲学のような事態であり、フッサール現象学の探求に存する。
 とまれ、超越論的構造における差異の再出現という大事件によって、近代的自我は混乱、カオスの状態に陥るのである。私見では、これが、「自己愛性人格障害」の本体ではないかと思えるのである。近代的自我、同一性中心自我にとって、在り得ない、不可能な事態が発現したのである。差異の力動、エネルギーが再発動・駆動したのである。この差異の発動が、近代的自我・同一自我に否定されて、反動狂気となっているのである。つまり、差異を否定しようとする憎悪・暴力・攻撃がここにあるのであるし、また、この、正に、反動暴力が、狂気凶暴な傲慢さを発生させていると考えられるのである。即ち、高位・優位の同一性自我は、差異を否定することで、成立・確立するのだが、しかし、ポストモダン事象によって、差異が再発動して、この前提が危うくされているのである。つまり、同一性を否定する差異の事象が再発現したのである。当然、同一性は、この差異を激しく否定する。蛇蝎のごとく、忌み嫌うように憎悪するのである。つまり、ポストモダン事象において、近代的自我は、分裂症、二重人格になるのである。高位・優位の同一性自我と同列の、対等の差異自我が発生するのであるが、前者が後者を否定・排除・隠蔽しようとするのである。そう、抑圧するのである。しかし、自己に存在し、また、進展するものを抑圧するので、当然、病理的になるのである。この差異への抑圧が反動病理になるのであり、これが、「自己愛性人格障害」として発症しているのだと考えられるのである。そして、唯物論的資本主義は、差異知性・差異教養・差異理性を排除しているので(ヴァンダリズム、石原都知事の都立大破壊)、この近代的自我狂気病は、治癒方法を喪失して、蔓延するのである。
 結局、近代的自我が否定した差異を肯定することが治癒につながるのである。そう、先に流行したポストモダンではだめである。DD/PS(DDPS)理論こそ、これを完遂できる理論と考えられるのである。つまり、流行したポストモダンは、DD/PS理論から見ると、メディア界に達したが、イデア界を捉えていないのであり、そのため、同一性構造から真に脱却できなかったのである。いったん、イデア界に達することから、純粋なメディア界に達することができるからである。不連続的差異の共立するイデア界に回帰して、純粋メディア界が生起するのである。これが、純粋ポストモダン、純粋ポスト構造主義である。

p.s. 同一性自我について、新たに考えると、これは、本来、差異自我が、同一性自我へと、いわば、転移ないし投影しているのである。同一性自我の投影像である。神話のナルシスであるが、水面に映る自我像とは、正に、同一性自我像であり、差異自我自身が自身をこれに投影しているのである。つまり、これは、まったく幻想・幻像なのである。差異自我自身が、同一性自我の仮面(パーソナリティ)をつけている、かぶっているからである。差異でありながら、同一性であると過信、盲信、妄信しているのである。つまり、同一性自我は、もともと、幻影・虚偽・虚構・欺瞞・虚栄的なのである。
 プラス・エネルギーの時は、これが、能動的であるからいいが、ポストモダン事象においては、仮面の具合が悪くなるのである。仮面の下の、真相が剥き出しになろうとするのである。仮面破壊が生起するのである。これに対して、同一性自我は、反動的に抑圧するために、病理・狂気的になるのである。「自己愛性人格障害」を哲学するとこうなるだろう。

p.p.s. 極性構造のエネルギーは、言い換えると、欲動・情動・衝動と言えるのではないだろうか。思うに、欲動・欲望とした呼んだ方がいいのかもしれないが。とまれ、作業仮説的に、欲望と呼んでおこう。プラス・エネルギーの場合は、同一性自我欲望である。食欲や性欲や所有欲においても、同一性自我の欲望が入るだろう。例えば、ブランド製品を欲望すると言った場合であるし、高級レストランで食事をするとか、外観の優れた者を性欲の対象にするとかである。そう、資本主義は、この同一性自我欲望と結んでいると言えよう。そのため、同一性欲望を刺激する宣伝に満ちることになるのである。
 とまれ、この同一性自我欲望がプラス・エネルギーであり、暴力である。即ち、

プラス・エネルギー=同一性自我欲望=暴力

となる。これは、また、差異への否定暴力でもある。
 しかし、問題は、マイナス・エネルギーが賦活されたポストモダン事象となる場合である。差異のエネルギーが生成して、同一性自我暴力を解体する方向にはたらくのである。この差異という他者に対して、同一性自我は、反動狂気化するのである。そう、マイナス・エネルギーとは、思うに、差異の欲望であろう。差異であることの欲望である。(ここで、ユング心理学の個性化の概念を想起する。)ここでは、差異への欲動と呼んでもいいように思える。とまれ、ポストモダン事象において、同一性自我欲望と差異自我欲望が衝突することになるのである。しかし、この事象は、超越論的構造、超越論的極性構造で生起しているので、単なる自我意識によっては、どうすることもできないのである。つまり、同一性自我は、ポストモダン事象において、いわば、ほぼ未知の経験をすることになるのである。つまり、同一性自我なので、差異に対する認識が欠落しているということである。このため、差異の欲望に対して、同一性自我は反動的な抑圧的態度をとるのである。というか、衝動的にそうなるのである。差異の欲望エネルギーが発動する。それを肯定的に受容できないので、それを抑圧するが、その抑圧が差異欲望エネルギーを反動化させて、狂気傲慢暴力攻撃衝動とするのである。つまり、同一性自我は、その差異欲望エネルギーを抑圧する態度のために、反動狂気衝動を引き起こすと考えられるのである。この差異欲望エネルギーの抑圧が、同一性自我の狂気的傲慢さを生むと考えられるのである。

3p.s. 以上のように考えると、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病の原因は、子供の時期の親から見捨てられる経験というトラウマ云々よりは、差異認識の欠落・欠如・欠損によるのではないのかと思えてきたのである。付け加えると、豊かな自然体験のそれである。この場合、自然とは、勿論、農村・漁村・山村等々における自然を含めて、いいのであるし、野趣の残る自然でもいいのである。
 すると、結局、なんらかの差異経験・体験の欠落が考えられるのである。「揺らぎがない」状態とは、正に、このことから発したと考えられるのである。子供たちに、同一性教育をして、差異教育していないのである。狂育である、正に。やはり、戦後唯物科学中心教育の帰結であろう。
 そう、「自己愛性人格障害」・同一性自我狂気病とは、トラウマというよりは、唯物科学教育の産物と見た方がいい。唯物科学とは、正に、同一性自我形式をもつのである。だから、
同一性自我/唯物科学教育が真因である。私は、近代的自我は、現代において、狂気になっていると執拗に論じたが、それは、正鵠を射ていたと言わなくてはならない。

4p.s. 言及するのを忘れていたが、オウム真理教事件であるが、正に、理系出身の青年たちが、多く関与していたことを想起するのである。同一性自我/唯物科学教育(狂育)を彼らは受けてきて、差異教育を受け来なかったため、差異が狂気反動化してしまったと考えられるのである。唯物科学は、悪魔の科学である。これを、明確に、認識しないといけない。真にイデア論に基づく科学が、天使の科学であろう。

DD/PS理論が、ポスト唯物悪魔科学としてのイデア論的天使科学を創造できるだろう。