イデア叡知光と阿弥陀如来

イデア叡知光と阿弥陀如来


テーマ:PLATONIC SOPHIENCE


先に、イデア叡知光の問題を考察し、差異面の光と同一性面の光の2つの光の極性があり、併せてイデア叡知光と考えた。この問題は、実に本質的で、核心的である。
 ここで、基本から考えよう。1/4回転によって、零度差異共振シナジーが形成される。これは、メディア界=メディア平面である。零度差異共振シナジーは、「発光」していると考えられる。これを、私は、イデア叡知光と呼んでいるのである。
 しかし、メディア界=メディア平面は、主に二つの面をもつ。即ち、不連続・差異面(以下、差異面)と連続・同一性面(以下、同一性面)をもつ。そして、イデア叡知光は、この両面性をもつと言えよう。差異面光(以下、差異光)と同一性面光(以下、同一性光)をもつ。つまり、イデア叡知光は、差異光と同一性光の全く異なる2つの光を帯びることになるのである。そして、差異光は、おそらく、ロレンス等が言う暗い太陽dark sunに関係するのではないだろうか。そして、同一性光は、当然ながら、原太陽光ないし現象光となるだろう。ついでに、ダークエネルギーのことに触れると、それは、差異光ないしイデア叡知光の物質的エネルギーを問題にしていると言えるのではないだろうか。
 まとめると、イデア叡知光とは、零度差異共振シナジーの光であり、それは、差異光と同一性光の両極・対極・極性をもつのである。
 さて、ここで思考を進展させると、差異面は差異極に、同一性面は同一性極になるのではないだろうか。つまり、ここでは、正に、太極の極性が形成されているのではないだろうか。(もっとも、これまで、ずっとメディア界・メディア平面を陰陽極性で考えてきたのではあるが。)そうならば、メディア平面は太極図のようであり、差異光と同一性光との両極の光を発していることになるだろう。つまり、メディア平面光=イデア叡知光とは、差異と同一性の対極光であるということになる。(ここで、注意すべきは、同一性とは、疑似同一性であり、本来、連続性と考えた方が正しいのである。連続・同一性志向性である。)つまり、差異/同一性の二重光であるということである。おそらく、この二重性は、混じってはいないのである。つまり、差異光と同一性光とは、混じり合ってはいないのである。あくまで、対極光である。比喩的に言えば、闇と光との対極性がここにはあるのである。黒い光と白い光の対極光である。暗い太陽と明るい太陽との二重太陽なのである。もっとも、太陽や光は、ここでは、原・プロトの意味である。現象界や物質のそれと見てはいけない。(何度も言うと、ヌース理論の根本的誤謬は、メディア平面光=イデア叡知光と光子というメディア/現象境界=超越同一性構造における「光」=量子とを混同して、同一視している点にある。半田氏がドゥルーズの差異=微分を基本にするのもむべなるかな。)
 以上のように考察すると、イデア叡知光とは、実に不思議な光であることがわかる。本体は、零度差異共振シナジーの光であるが、それは、対極光でもあるのである。一つの光であると同時に、「二つ」の光でもある。しかし、「二つ」とは、いわば、ヴェンダーンタ哲学の不二一元論の「二つ」である。あるいは、即非の論理の「二つ」である。二即一である。あるいは、差異即同一性である。



http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Waterland0_002.jpg

 
 さて、このようにイデア叡知光を再検討してみると、これは、実に、阿弥陀如来の光、とくに、阿弥陀三尊の様態に関係するように考えられるのである。後者において、脇侍(きょうじ)として、観音菩薩勢至菩薩をもつが、これは、イデア叡知光の対極と見ることができるのではないだろうか。両者、「見る」や光に関係するのである。つまり、阿弥陀如来とは、イデア叡知光そのものであり、脇侍の観音菩薩勢至菩薩はその対極光をなしていると見ることができるように推察できるのである。
 さらに思考を展開すると、古事記の三柱の神、即ち、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神産霊神(かみむすひのかみ)とパラレルになりそうである。天之御中主神が、当然、イデア叡知光である阿弥陀如来である。そして、後の二者が陰陽光になる観音菩薩勢至菩薩に対応すると推察できるのである。つまり、日本の神話と仏教思想とは、イデア叡知光という共通の根源の光を見ていたことになると考えられるのである。ただ、表現が異なるだけである。万教帰一である。
 そうならば、神仏習合とは、実に論理的な宗教的展開であると言えよう。そして、折口信夫が、『死者の書』で、山越阿弥陀の伝統的な宗教思想を復活させたのは、折口自身が、イデア叡知光を見ていたからであると考えられるのである。
 また、さらに付加すると、空海両界曼荼羅であるが、思うに、大日如来が、イデア叡知光であり、金剛界曼荼羅胎蔵曼荼羅が、対極世界を表現しているように思うのである。
 ここには、ゾロアスター教、仏教、神道が一致しているのである。
 ここで、ユダヤ教キリスト教の「光」の問題に触れると、ヤハウェの光ないしキリストの光はイデア叡知光の一面、一極の光、即ち、同一性の光に過ぎなかったと思うのである。旧約聖書の神名は、ヤハウェとエローヒム(神の複数形)の二つがあるのである。これは、推測するに、イデア叡知光の対極であると思うのである。ヤハウェが同一性光であり、エローヒムが差異光であると思われるのである。そうすると、ユダヤキリスト教には、根源のイデア叡知光が明示ないし顕示されていないように思えるのである。箴言等は、イデア叡知光の智慧を表現していると思うのである。「光あれ」の光とは、同一性光、即ち、現象光だと思うのである。どうも、ユダヤキリスト教には、イデア叡知光が、隠れてしまっているように思えるのである。イデア叡知光の神が、隠れ、忘却されてしまったように思えるのである。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィルの名作『モービー・ディック(白鯨)』である。その中で、パラノイア的なエイハブ船長が、セント・エルモの火に対して述べる言葉に、根源的な母なる神が示唆されているのである。父なる神を超えた神である。これこそ、失われたイデア叡知光の神と考えられるのである。
 やはり、ポスト・ユダヤキリスト教である。真に正統的な宗教の復活である。偏頗な宗教の時代は終焉したのである。そう、メルヴィルにおいて示唆されるゾロアスター教の光、そして、ニーチェにおけるツァラトゥストラ永遠回帰を考えると、結局、
ポスト・キリスト教であり、


イデア叡知光回帰なのである。


ゾロアスター教、仏教、神道プラトン哲学の復活である。


西洋は滅びたのである。西洋は死滅したのである、永遠に!


p.s. ついでに、伝統的な三女神(三美神も含めて)であるが、これも、ここでの考え方が適用できるように考えられるのである。例えば、古代ギリシアのエレウシスの秘儀であるが、デーメーテールとは、イデア叡知光ではないだろうか。そして、復活する娘のコレーとは、対極光(死と生の対極性)を指すと考えられよう。コレーとペルセポネ(冥界の神)は一体である。そう、ペルセポネ(死)とコレー(生)が対極的に一如であろう。
 また、イシス・オシリス神話であるが、これも同様に考えられよう。オシリスが死んで、復活するのであるが、オシリスが生死の対極性であり、イシスがイデア叡知光であろう。
 また、さらに、ユダヤ神秘思想のカバラであるが、その三元的構成は、ここでの考え方で説明できるだろう。中央に対して、両極の柱があるが、それが、対極性であり、中央がイデア叡知光と考えられよう。
 また、D.H.ロレンスの「王冠」の思想であるが、父と子の二元論と、聖霊による一致であるが、父と子とが対極性であり、聖霊イデア叡知光を指すと考えられるのである。
 結局、すべては、太極哲学に表現されているのである。そう、老子とは何哉(なんぞや)。中国とは何哉。アジア・東洋とは何哉ということになるだろう。

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参考:
阿弥陀如来
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
阿弥陀仏 から転送)
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来迎印の阿弥陀如来像(牛久大仏
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来迎印の阿弥陀如来像(牛久大仏
定印の阿弥陀如来像(鎌倉大仏
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定印の阿弥陀如来像(鎌倉大仏
鎌倉大仏の印相
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鎌倉大仏の印相

阿弥陀如来(あみだにょらい、amitaabha )は、大乗仏教如来 の一。阿弥陀仏・弥陀仏などともいう。
目次
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* 1 概論
* 2 垂迹神
* 3 日本における主な作例
* 4 関連仏典
* 5 関連宗派
* 6 関連僧侶
* 7 関連項目

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概論

阿弥陀」はサンスクリット の「アミターユス(amitaayus)」=「無限の寿命をもつもの」、アミターバ(amitaabha)」=「無限の光をもつもの」音写したもの。意訳して、無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土 という仏国土を持つ。造形化された時は施無畏印与願印・定印・来迎印を結ぶ。阿弥陀三尊 として祀られるときは、脇侍に観音菩薩勢至菩薩 を持つ。密教 においては、五仏(五智如来 )の一如来として尊崇される。

無量寿経 によるとインド 王族の出身だったが、世自在王仏 に出会い出家 。法蔵 と名乗り、非常に長期間衆生 の救済の思索をめぐらし(五劫 思惟(ごこうしゆい))、浄土 への往生 の手立てを見出したことにより仏 となった報身 仏。衆生救済に関して48の願い(四十八願 )を立て、特に浄土教 において第十八願 を「本願 」と呼んで重要視する。また、現在も説法をしていると信じられている。

これを語源 とする他力本願 と云う言葉は、本来の宗教的な意味合いを離れて、「ムシのいい、他人への依存」「無責任」という意味でも広く用いられるが、本来は自分自身(自力)の力「のみならず」仏の力,他の人の力(他力)、すなわち縁の力も互いに借りて皆がより良く生きるという意味である。浄土真宗 においては、煩悩具足の凡夫は阿弥陀仏の本願、すなわち他力本願によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、自力は否定されるが、この場合でも「他人依存」「無責任」は、言うまでもなく他力本願とは相容れない概念である。

チベット仏教 における副法王パンチェン・ラマ阿弥陀如来の化身とされる。

大乗仏教 で登場した仏尊であり、その起源はゾロアスター教 に遡り、光明の最高神アフラ・マズダー が無量光如来、無限時間の神ズルワーン無量寿如来として仏教化されたとする学説もある。また西方極楽浄土は、ゾロアスター教の起源であるペルシャ 地方、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア 地方が背景になっていると考える少数派の意見もある。
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垂迹神

* 熊野権現
* 八幡神

ほか
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日本における主な作例

国宝

* 中尊寺 像 (岩手県西磐井郡平泉町)(金色堂安置諸仏のうち)
* 高徳院 像 (神奈川県鎌倉市)(鎌倉大仏
* 浄土寺 像 (兵庫県小野市)(阿弥陀三尊像のうち、快慶 作、浄土堂安置)
* 平等院 像 (京都府宇治市)(定朝 作、鳳凰堂安置)
* 広隆寺 像 (京都市)(講堂安置)
* 仁和寺 像 (京都市)(阿弥陀三尊像のうち、金堂安置)
* 法界寺 像 (京都市)(阿弥陀堂安置)
* 三千院 像 (京都市左京区)(阿弥陀三尊像のうち、往生極楽院安置)
* 法隆寺 像 (奈良県生駒郡斑鳩町)(阿弥陀三尊像のうち、橘夫人厨子安置)

重要文化財(国指定)

* 太山寺 像 (神戸市)(阿弥陀堂安置)
* 圓教寺 像 (兵庫県姫路市)(常行堂安置)
* 知恩院 像 (京都市)(阿弥陀堂安置)
* 孝恩寺 像 (大阪府貝塚市

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関連仏典

* 無量寿経
* 観無量寿経
* 阿弥陀経

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関連宗派

* 融通念仏宗
* 浄土宗
* 浄土真宗
* 時宗

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関連僧侶

* 曇鸞
* 善導
* 良忍
* 法然
* 親鸞
* 蓮如
* 一遍

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関連項目

* 大日如来
* 阿弥陀信仰

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カテゴリ : 如来 | 浄土系仏教