同一性自己・近代的自我あるいは自己愛性人格障害について

同一性自己・近代的自我あるいは自己愛性人格障害について


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義



これまで、本件については、何年も反復、考察してきて、既にある結論には達しているが、まだ、言い足りないものがあるように思える。病的な同一性自己=自我なのであるが、そう、病的な傲慢さ・尊大さ・僭越さ・猛々しさ、等々なのであるが、まだ、ポイントが言い足りない感じではあるのである。差異を完全否定した同一性自己なのである。これは、どういうことなのか。メディア界を完全・絶対同一性の視点から見ているということである。そこには、絶対的同一性=絶対的自我があるのである。いわば、ヤハウェの個人版である。問題は、もし、それだけなら、動物の視点であり、動物の同一性の本能で生きるだろうから、人間動物ということで問題はないはずである。
 しかし、そうではないのである。つまり、メディア界=差異即非界の賦活された様態が人間の本性であるから、同一性中心主義とは、差異を否定する精神的力動性をもつということになるのである。つまり、人間の自己否定としての同一性主義なのである。自己の差異並びに、他者の差異を否定する精神性=狂気をもつのである。これは、矛盾的行為なのである。同一性自己は、メディア界から生まれて、メディア界を否定するからである。これまで、裏返しとか、捩れとか呼んできた。本来、同一性の視点に対して、差異の視点がある。差異と同一性の極性があるのである。
 しかし、同一性中心主義は、差異を完全否定するのである。言語形成によって、同一性自己が形成されるが、しかし、同時に、差異の自己が存して、社会性を形成するものである。差異と同一性とのバランスが社会や文化の要である。しかし、近代的自我は、これを破壊して、同一性中心主義自己を形成するのである。
 少なくとも、差異と同一性の弁証法が形成されて、同一性が主体となるのが近代的自我である。しかし、同一性中心自己は、差異の無化を志向しているのである。つまり、自己の本質である差異を無化しようとしているのである。しかしながら、差異は、消えないのである。だから、同一性中心自己は、徹底して、差異を否定しようとして、闘争状態を維持することになるのである。いわば、殺気立つのである。しかし、これは、不合理である。差異は本質であるから、それは、狂気になるのである。
 問題は、どうして、差異を肯定しょうとしないのか。本来存する差異を否定・無化しようとするのか。差異は、精神性の領域ないし身体精神の領域である。だから、精神や身体の否定としての同一性中心自己である。近代合理主義においては、そのようになるのであるが。では、その根因は何か。何が、近代合理主義に向わせるのか。原因は、以前は、心の冷暗化であるとし、先には、恐怖であるとした。思うに、スピノザの言う悲しみを根因とすることができるかもしれない。差異のフィールドは、精神・身体のフィールドであり、ここでは、確かに、喜びと悲しみの極性があるだろう。私が以前悩んだのは、差異共振は、歓喜であるから、人間は本来、歓喜が基礎としてあるから、悲しみが中心となるのは、劣弱の差異のせいであるという点である。
 確かに、差異共振シナジー歓喜である。しかし、歓喜が基礎にあるとは言え、悲しい経験から、冷暗化し、固定化することは考えられるだろう。その結果、悲しみがベースとなり、同一性化が固定するということが考えられるのである。
 では、悲しみとは、差異のどういうことなのか。差異共振ではないことは明らかである。差異の共振の阻害としての悲しみであろう。差異不共振である。それは、何か。つまり、本来は、差異共振があったが、それが何らかの原因で、差異不共振となったのである。トラウマを考えるといいだろう。つまり、何らかの悲しみの経験が生起する。それは何か。それは、親の不在であり、親の冷酷さであり、その他の不快な経験である。それにより、差異共振的歓喜が消滅するのである。これは、正に、他者からの差異共振歓喜否定である。これにより、おそらく、差異共振シナジー歓喜性が否定されるのである。そして、それに替わって、同一性自己が形成されるのである。つまり、反感反動から同一性自己が形成されるのである。
 では、どうして、反感が同一性に向うのか。差異の否定はわかる。では、どうして、同一性へと向うのか。ここで、フロイト死の欲動理論を考えると、フロイトの孫の糸巻き遊びにおいて、死の欲動が発動されて、言語形成がなされるとしたのである(注:私は、精神分析理論を批判するものであるが、フロイト死の欲動説は、唯一肯定できるものではないかと思えているのである)。つまり、言語同一性化であろう。糸巻きと母親とが、同一性化されるのである。つまり、代理・代償としての同一性である。糸巻きと母親は、明らかに、差異であるのに、それを、音声言語を介して、同一性化するのである。糸巻き=母親である。フロイトの説が正しいなら、同一性言語は、破壊・憎悪・反感等から生まれることになるのである。それは、差異否定の精神である。この線で考えると、差異への反動としての同一性志向である。つまり、差異への嫉妬や恨みや憎悪、つまり、ルサンチマンとしての同一性言語形成である。反動同一性言語自己形成である。
 しかしながら、本来は、差異言語、差異共振能動自己があるはずである。だから、差異言語と同一性言語の対立があるはずである。しかるに、同一性中心主義は、前者を排除しているのである。これは、何か。そう、差異共振性が弱いということがあるだろうし、差異不共振性が強いということが考えられるだろう。つまり、これは、一つの事象ではないのか。差異共振シナジー精神の弱さである。以前は、差異の劣弱さと高貴さとの二元論を考えたが、そうではなくて、後天的経験としての、差異共振シナジー経験の弱さが原因ではないだろうか。もし、差異共振シナジー経験が強ければ、反動同一性が生起しても、それに対してバランスとなる差異共振シナジー性が存するからである。確かに、差異共振シナジー歓喜精神経験が少ない、乏しい、あるいは、欠落した主体ならば、反動同一性中心主義となり、反感・憎悪・嫉妬等のルサンチマンが優勢となるだろう。
 ここで、問題は、母不在の意味である。もし、母親が、差異共振精神の乏しい人間ではあるが、いちおう、食べ物や世話はしたとしよう。そのような、「物質」的母親の不在は、子供にとり、物質的反感を起こすだろうし、反感・憎悪・嫉妬等のルサンチマン感情をもつだろう。
 ということで、同一性中心主義自己の問題は、差異共振歓喜経験の大小・有無・多寡にあることとなった。近代合理主義の両親や社会で育てば、当然、差異共振歓喜経験が乏しく、反感・憎悪・嫉妬等のルサンチマンをもった同一性中心主義自己の人間となるだろう。現代日本の問題はこれであろう。差異共振シナジー精神の欠如・欠落が原因なのである。やはり、戦後の近代合理主義が元凶のようである。
 日本人は、精神文化を、神のエネルゲイアを取り戻さないといけない。

p.s. 結局、差異共振精神の欠乏した比較的若い、ないし若い世代が存するように思う。もっとも、近代においては、一般的なのだが。とまれ、問題は、差異共振精神の欠乏・欠落・欠如した「心」の有り様であるが、この同一性中心主義の「心」にとって、差異共振精神はどう取られるのかのである。差異共振精神は、エネルゲイアであるから、《力》である。だから、この《力》を、同一性中心主義自己に発出するのであるが、同一性自己は、それを、自己を阻害する脅威と感じるだろうから、反動的に攻撃・暴力的になるはずである。反動攻撃・暴力である。
 さらなる問題は、同一性中心自己における、差異共振精神の賦活の事態である。何故これが問題になるかと言えば、差異共振シナジーのデュナミスが、同一性中心自己においても、存しているのであり、新たにエネルゲイア化する可能性が考えられるからである。
 このデュナミスのエネルゲイア(賦活)化は、どうして起こるのだろうか。自然発生なのだろうか。少なくとも、差異共振シナジーの環境にあると、眠っているデュナミスが賦活されると言えるだろう。つまり、正に、共振的に賦活されるのである。例えば、東京や他の大都会ではなく、辺境の地方や外国の地方や自然の環境に触れるとそのようになるだろう。あるいは、聖地と呼ばれる地は、差異共振シナジーの「エネルギー」(思うに、メディア界の力動はエネルゲイア、現象界のそれはエネルギーと、区別することができるだろう)が強いから、聖地へ赴くと、《パワー》を得ることが出来るだろう(巡礼とは、一つには、このような意味があるのではないのか)。あるいは、気功等によって、差異共振シナジー・「エネルギー」を得られるだろう。
 私の考えでは、内在的に、即自的に、差異共振シナジー化が生起するのではないかと思われるのである。それは、どういう力学からか。これは、単純に、作用/反作用の力学ではないだろうか。つまり、本来、メディア界は、差異共振シナジー界である。しかるに、不連続極と連続極がある。イデア極と現象極と言ってもいいだろう。同一性自己は、連続・現象極の事象である。だから、それを相補する対極の不連続・イデア極の事象が発生すると考えられるのである。同一性に対して、差異が反作用するのである。ということで、差異共振精神がデュナミスであっても、必然的に、差異は賦活されると考えられるのである。
 この再賦活化において、同一性自己が強固であると、差異共振シナジーエネルゲイアに対して、さらなる反動が強化されると考えられるのである。これが、現代の自己愛性人格障害シンドロームではないだろうか。私の言葉では、近代的自我狂気症である。賦活された差異共振シナジーエネルゲイアに対して、同一性中心自己=近代的自我は、反動攻撃・暴力を行使するのである。そして、これは、当然、非合理的衝動であるから、狂気である。私が考えるように、近代的自我は、狂気になるのである。そして、現代日本社会は、このような狂気の集合体となっているのである。もっとも、先進諸国は、こうなっているだろうが。