検討問題:ポストモダンについて:ポスト・オクシデント、ネオ・オリ

検討問題:ポストモダンについて:ポスト・オクシデント、ネオ・オリエント、プラトニック・エポック


ポストモダン、ポスト近代とは、ポスト西洋文明を意味するだろう。ユダヤキリスト教的西洋文明の終焉を意味するからである。ポスト云々は、消極的ではある。ネオ・ヘレニズム(東西融合主義)とは呼べるだろう。
 後で検討したい。


参考:
ヘレニズム
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ヘレニズムとはギリシア人 (ヘレネス)に由来する語で、ギリシア風という意味で用いられるが、広くギリシア文化全体を指すこともある。
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ヘレニズムとは何を指すか

一般にはアレクサンドロス大王 の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント 文化と融合して誕生した文化、あるいはその史的展開を指して言うことが多いが、ヘレニズムとは何を指すかという根本的な命題に対しては学者の間でも見解の統一を見ていない。

ヘレニズムという概念が誕生したのは19世紀 初頭のドイツ の歴史学者ドロイゼン によってであるといわれる。
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ヘレニズム時代

アレクサンドロスの死後、その版図はアレクサンドロスの部下達によって分割された。これら、およびさらにそこから派生した諸国をヘレニズム諸国という。

* アンティゴノス朝マケドニア王国
* セレウコス朝シリア王国
o アッタロス朝ペルガモン王国
* プトレマイオス朝エジプト王国

これらの国は東地中海からオリエント地域を支配し、ギリシャ系の文化「ヘレニズム文化」を発展させたが、次第に共和政ローマ が東へ進出し、ついに紀元前30年 、プトレマイオス朝エジプトがローマに併合されて完全にローマの支配下に入った。しかしその後も、ギリシア語 は東地中海地域の共通語 として使われ、ヘレニズム文化が栄えた。また、ローマ帝国分裂後も7世紀以降の東ローマ帝国 では支配地域・住民がギリシャ語圏となったためにヘレニズムの伝統が重視され、キリスト教 と融合した「ビザンティン文化 」を生むことになった。
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関連項目

* コスモポリタニズム

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カテゴリ : ヘレニズム時代 | ヨーロッパ史 | ギリシャの歴史 | マケドニア王国 | 文化史



英語版
http://en.wikipedia.org/wiki/Hellenistic_Greece



ヘレニズム Hellenism


ヘレニズムという語は一般に 2 通りの意味で用いられている。一つは 19 世紀イギリスの詩人・文明批評家M.アーノルドが《教養と無秩序 》において,ヨーロッパ文化の根底を成した精神的伝統の一つとして,ヘブライズム (ユダヤ教キリスト教思想の源泉) と対置させた場合のヘレニズムで,以来広く〈ギリシア文化一般の本質にかかわる精神的基盤〉の意味に用いられる。いま一つは同じく 19 世紀ドイツの歴史家J.G.ドロイゼンが《ヘレニズム史》において創唱した歴史学上の時代概念としての〈ヘレニズム〉で,従来ギリシア史の長い衰亡期,ギリシア文化の質的劣悪化の時期,ローマ帝国成立までのつなぎの時代とみられてきたアレクサンドロス大王以後約 300 年の時代と文化は,彼以後ヘレニズム (ギリシア風文化) の名によってその固有の世界史的位置づけが確立した。ここでは後者の意味での〈ヘレニズム〉について述べる。

 しかしこの時代概念としてのヘレニズムの枠組みは諸説一定せず,年代的にはアレクサンドロスの東征進発 (前 334),または大王の即位 (前 336) ないし没年 (前 323) に始まり,ローマによるプトレマイオス王国 征服 (前 30) に至る 3 世紀間とするのが通説だが, マケドニア 王国の勃興と同時代のポリス世界の変質に注目して,前 360 年以降をヘレニズム時代とする有力な見方 (H.ベングトゾン) もある。また〈ヘレニズム世界〉といわれる場合の地域範囲としては,一般にギリシア本土,マケドニア以東アレクサンドロス帝国に包含された東方領域全体が対象となるが,一方ではギリシア文化の拡散普及に力点を置いて,カルタゴ,イタリアなど西地中海周辺地域をもこれに含める見解 (U.ウィルケン) もある。いずれにしても文化史的概念としてのヘレニズムと,政治史を軸に規定された時代概念としてのヘレニズムとを整合させることには本来無理があるといわなくてはならない。

【ヘレニズム時代の歴史概観】

 アレクサンドロス大王の死後約 40 年に及んだ〈後継者戦争〉の過程で,エジプトにはプトレマイオス家,小アジア以東イラン東北辺境にいたる広大な東方領にはセレウコス家の王朝支配が,それぞれ前 4 世紀末までには確立した。とくに権力争奪が激しかったマケドニア本国では,ケルト人の侵攻も加わって安定が遅れ,前 277 年になってアンティゴノス朝が確立した。

 プトレマイオス王国はファラオ時代以来の中央集権的な官僚制をさらに整備し,生産流通交易の国家統制を強化して,初期 3 代のプトレマイオス 1 世から同 3 世の治世に最も安定した繁栄期を現出した。当時首都アレクサンドレイア (アレクサンドリア ) は世界交易と学芸文化の大中心地として栄華を誇ったが,前 3 世紀末以降王権の弛緩とともに土着勢力や農民の反抗気運が高まった。対外的には海上支配を追求し,またシリア王国とは国境紛争を繰り返したが,ローマとは友好関係を維持して諸王国中で最も長く独立を保った。

 シリア王国 ではセレウコス朝諸王が,多民族構成の広大な領域を,属州方式と都市建設によって有機的に統合しようとしたが成功せず,前 3 世紀半ばには東方辺境の植民ギリシア人がバクトリア王国 を独立させ,同じ頃イラン系のパルティア人 (パルティア ) も自立して,王国の東方領域は急速に失われた。また小アジア西部ではアッタロス家のペルガモン王国 が成立し,ユダヤ人も前 2 世紀半ばのマカベア戦争 で独立して,支配範囲はさらに縮小した。前 2 世紀以降は異民族支配の矛盾に加え王家内部のお家騒動が頻発して,王国の衰滅が早まった。

 またマケドニア本国を領して,クレモニデス戦争勝利以来ギリシア諸国にも強い影響力を行使したマケドニア王国は,前 3 世紀末からローマの東方進出が始まると,これに正面から直接対峙する最初の防波堤となった。しかし強国の外圧を東西から受けるペルガモン王国は,その安全をローマの支援に求めることが多く,ギリシア世界でもアイトリア,アカイア両同盟の対立抗争がしばしばローマ側に軍事介入の好機を与えたため,マケドニア王国の立場はしだいに苦境に追い込まれた。第 3 次マケドニア戦争の結果ローマに敗北した王国は 4 自治区に解体され,次いでギリシアとともに属州の地位に転落した (前 146)。

 一方ローマ進攻期のエジプト,シリアは両王国とも王権の弱体化と王家の内紛によって自壊の傾向を強めており,ローマの東地中海進出に対しては共同してこれを阻止するだけの実力も意志も既になかった。前 133 年以来王の遺贈によってローマの属州となった旧ペルガモン王国領は,ローマ人高利貸資本家の過酷な収奪対象と化し,これに反抗したポントス王ミトリダテス 6 世の民族的抵抗戦争 (前 88‐前 63) は,ローマの東方進出にとって最大最後の障害となった。シリア王国はその後ポンペイウスの手で解体され (前 64),クレオパトラ 7 世がアントニウスと結んで再建を図ったプトレマイオス王国も,カエサルの攻撃によって滅び (前 30),こうしてヘレニズム世界はローマの支配下編入された。

【ヘレニズム国家と文化の諸相】

[諸王国の支配]

 ヘレニズム 3 王国のうち東方に成立したプトレマイオス家のエジプトとセレウコス家のシリアについて,この両王国に共通するのは,統治がマケドニア王国の場合と違って,本来国民的な基盤をもたない外国人の征服王朝による支配だった点である。東西の支配的民族の融合と統治における両者の協力とを目ざしたアレクサンドロス大王の帝国構想は,エジプトではたぶん最初から放棄され,シリア王国の場合には継承・放棄の両説が分かれるが,いずれにせよ王国の行・財政や軍事面に中心的な役割を果たしたのは,やはり概してマケドニアギリシア系の特権的な支配層だったであろう。

 マケドニア王国やギリシア本土では伝統的な土地私有制が前代からそのまま引き継がれたが,エジプトでは支配者が〈槍で獲得した土地〉のたてまえから,その国土全体が原則として王の所有とされた。古来の特権的な大神殿領も例外ではなく,王権の管理の下に納税の義務を課せられている。王領地農民は身分上は自由とされたが,小作契約は誓約によって一方的に不利を強いられ,厳しい生産管理や賦役に服するなど,その地位は隷属民と異ならなかった。植物油,パピルスなど王国の重要な財源となる産物は,その生産流通に完全な国家独占の規制が加えられた。外国人王朝の東方人〈臣民〉に対するこうした支配と収奪とは,やがてヘレニズム時代後半期になって王権がしだいに弱体化すると,抑圧された農民や土着勢力の側に民族的色彩を帯びた広範な反抗を呼び起こすようになる。エジプトでは前 3 世紀末以降,民族差別を緩和する政策姿勢がようやく現れ, 〈徳政令 (フィラントロパ) 〉もしばしば発布されるようになるが,それらも農民の集団的逃散や一揆の頻発,大神殿神官層の反王朝的な動きを抑えることはできなかった。シリア王国でもパルティア勢力の急速な拡大を可能にした背景として,イラン人のセレウコス朝支配に対する強い民族的反発があったことは否めない。

 プトレマイオス家とセレウコス家は,いずれもその支配に伝統と正統性を欠いた征服王朝だったので,新王朝の権力を補強しその正統性を創出する政治的必要から,在位中の支配者の神格化とその制度的な祭祀,いわゆる君主礼拝制を公式に採用した。直接にはアレクサンドロス大王の神格化を契機とし,おそらくギリシア諸都市側からの迎合追従に始まったこの制度は,エジプトではプトレマイオス 2 世の時代に (前 270),またセレウコス朝では遅れて前 2 世紀初めアンティオコス 3 世のときに本格的に成立し,のちローマ皇帝崇拝に道を開くことになった。ただしマケドニアとペルガモンの両王国ではこの制度は行われていない。

[都市と王権]

 ヘレニズム時代は都市文明の時代であった。農村は輸出向け,内需用の農作物生産を通じて都市文明の繁栄を犠牲的に支える土台となった。しかもその都市文明の光は概して都市領域にとどまって後背地農村部にまでは及ばず,おおかたの農村は慢性的な窮乏のなかに閉ざされて古い固有の生活習俗や信仰,土着の言語を守り続けた。都市の繁栄と農村の衰微とは明暗の鋭いコントラストをなしてヘレニズム期の一つの時代的特徴を示している。

 ヘレニズム都市文明の拡大は,その数の点では主としてセレウコス朝初期 2 代の王の積極的な都市建設によって推進された。セレウコス 1 世 19 市,アンティオコス 1 世 16 市,両王のどちらかによって 7 市という数が推定されており,その分布範囲は小アジアからイラン東北辺境にまで及んでいる (V.チェリコバ)。セレウケイア (セレウキア),ラオディケイア (ラオディケア) など王朝君主や王妃の威信をその名称に伝えるこれらの建設都市は,その規模も建設理由もまちまちだが,概して通商交易上ないし軍事上の要地にあたり,地域行政や入植屯田の便に資するように意図されたのであろう。新都市に来住した市民は納税の義務を負ったが,原則としては自治を認められ王領地を追加賜与されるなどして,そうした特典といわば引換えに統治の支柱となることが期待された。ちなみに中央集権的なエジプトでは首都を除けば都市建設は行われず,新都市はほとんどプトレマイス 1 市だけにとどまった。

 一方,王権と在来のギリシア都市との間には当時一種の相互補完的な持ちつ持たれつの関係が成立している。たとえば初期のエジプト王国では,王国行政に必須の官僚層をはじめ軍事力の中心となる傭兵にしても,国内産業振興に必要な手工業職人にしても,求められるのはもっぱらギリシア人だったので,そうした人材確保の窓口としてギリシア都市は不可欠だった。のみならず穀物など国内生産物の市場もまた主としてギリシア都市だったから,都市との友好維持は王国外交のとるべき基本路線となった。しかし都市の側でも国際緊張のなかで存立を全うするための安全保障の方途は,多くこれを有力な王権の庇護に求めるほかなかった。王は都市側の好意を求めてその自由・自治を約し,都市側もまた王に黄金冠を贈り,その神格化を決議するなどして王のきげんを取り結ぶといった関係がこうして成立したのである。

 ヘレニズム都市の繁栄は基本的には通商交易の世界規模に及ぶ活発化に支えられていた。アレクサンドロスがペルシア帝国征服後,その莫大な接収貴金属地金類を貨幣として大量に流通過程にのせた結果,ヘレニズム初期は全般的に著しい経済好況の時代となった。しかも帝国通貨の品位をアッティカ基準に統一した大王の通貨政策は,エジプト国内を除き諸国にも広く継承された結果,ヘレニズム時代の貨幣経済は国際的な広がりをもつ統一的な流通経済圏を成立させることになった。通商交易の範囲は狭義のヘレニズム世界を越えて広がり,エーゲ海,東地中海とその周辺地域を中心に,東はインド以遠,西はカルタゴ,イタリア,北は黒海周辺地域に及んだ。南海経由のインド交易航路開発にはエジプト,シリア両王国が競り合い,1 世紀余にわたった南シリア争奪戦にも東方交易路をめぐる両国の利害が深くからんでいた。世界商業の拠点として当時栄えた都市には,エジプトのアレクサンドレイア,オロンテス河畔のアンティオケイア (アンティオキア),ペルガモンの 3 王国首都をはじめ,ティグリス河口のセレウケイア,エーゲ海域の島市ロドス,デロス,小アジア西岸のエフェソスなどが挙げられる。

 東方諸都市のこうした繁栄に比べると,ギリシア本土の在来の諸都市は,唯一通商拠点として栄えたコリントスを除けば,一般に沈滞傾向を免れなかった。それどころか,当時のギリシア本土各地は利害の対立する諸王国,なかでもマケドニアの干渉圧力の下で,政治的にも無力で不安定な状況にあった。本土諸都市としては,自己保全の道を王権の庇護に仰ぐにせよ,相互の連帯強化に求めるにせよ,伝統的な〈ポリス自治〉のたてまえを厳密に堅持することはもはや不可能な時代だった。当時若干の都市が試みた相互連帯のやり方には,市民権の互換共有 (イソポリテイア) とか,市民権の合体一本化 (シュンポリテイア) の方式があった。前 3 〜前 2 世紀にはこうした連帯の動きを踏まえて,より大きな連邦組織 (コイノン) が成立した。中部ギリシアのアイトリア同盟とペロポネソスに成立したアカイア同盟がそれで,いずれも加盟各国の自治原則と集団安全保障の現実的必要とをなんとか調和妥協させようとする,ギリシア人の新たな政治的実験であった。

[都市文明の諸相]

 東方 3 王国の首都はいずれも世界商業の市場中継地として国際都市の繁華を誇っただけではなく,王城の地としても一国の富強をその広壮の美に誇示した。王宮は同時に行政府としてつねに外国使臣や内外の高官に満ち,王朝の式典遊楽に競われる廷臣たちの華美は,市民風俗流行の先駆けとなった。学芸奨励もまた王権の飾りとなった。各地の学者文人は,たとえばアレクサンドレイアの王宮や王宮に付設されたムセイオン ,大図書館 (アレクサンドリア図書館 ) に集まって研究や芸術を大成させ,そうした学芸保護の風はポントスのような辺境小王国の都にも広まった。

 王権の顔としての首都がその規模・美観を誇っただけでなく,一般の中小都市でも市民生活の環境はこの時代に目だって改善された。新建設都市は概して矩形の市域に直交する道路網を配した〈ヒッポダモス方式〉の都市計画によって造られ,街灯が夜の舗装道路を明るくし,上下水道の設備が健康で衛生的な生活の場を提供するようになった。ヘレニズム前半期の経済好況は都市民衆のレベルでもその生活水準を前代に比べてかなり向上させた。小都市プリエネやデロスの遺跡にみるように,庶民の住居でも床モザイクを張った小部屋に量産工芸品のタナグラ人形 を飾って生活を楽しむささやかなゆとりが生じた時代であった。

 ヘレニズム都市文明のこうした様相は,ギリシア人が移住植民によって拡散するにつれ,広範囲にしかも一様性をもって広まった。その一様性は都市の施設外観だけでなく市民生活の内実にも及んでいる。植民都市の多くはもともと出身地も出身階層も違う入植ギリシア人たちの混成社会だったが,彼らは現地住民に対しては自治都市の運営維持にあたる指導層として,結束した特権グループを構成した。入植者はふつう男だけだったから時とともに混血が進んだが,それでも彼らは自分たちをギリシア系住民として,まったくの土着民とは区別した。お仕着せの自治の下で政治離れの傾向を強めた都市市民は,昔の政治集会の代りにさまざまの社交クラブや講,職業別の親睦団体に寄り合って市民団のまとまりを図った。なかでも教育機関であるギュムナシオン (体育館) への入会資格はギリシア系市民だけに限定され,そこの出身者のクラブは市政に格別の重きをなした。

 こうしたヘレニズム諸都市では,人気が下り坂のオリュンポス諸神崇拝に代わって東方系の神々がより強く人心をとらえ,概して神信仰の多様化傾向がみられた。同時に他方では多様な神々の上位に普遍的な統合神格を求める諸神混融 (シンクレティズム) の傾向も強まり,エジプト古来のイシス 女神や遅れて創始されたセラピス 神などの崇拝は,とりわけ密儀を通じ現世の救済と死後の永生を保証する神としてヘレニズム世界各地に広まった。こうした諸神格の混融は各地で起こり,イラン東部バクトリア王国の都市遺跡アイ・ハヌム からはギリシア化された東方系の女神像を拝火壇といっしょに表現した図柄の遺物も出土している。

 ギリシア文化はマケドニアギリシア人の植民移住を通じ共通の言語 (コイネー・ギリシア語) に媒介されて広範囲に普及し,東方各地の土着文化とも接触する過程で国際的なヘレニズム文化をつくり上げた。しかしその新文化形成の過程は必ずしも平和的な融合混交だけではない。異文化同士の接触が厳しい抗争対決を生じた例はユダヤ人との文化摩擦,ヘブライズムとの衝突だった。ユダヤ人はセレウコス朝諸王のヘレニズム的宗教政策が彼らの民族的な信仰を掘り崩すとして,前 2 世紀半ばユダス・マカバイオスの指導下に蜂起し,信仰の擁護と民族独立の目標を達成したのだった。なお,ヘレニズム時代の美術,科学,文学については,それぞれ〈ヘレニズム美術 〉〈ギリシア科学 〉〈ギリシア文学 〉の項目を参照されたい。

大牟田


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