反差異的同一性主観発生の仕組みについて

反差異的同一性主観発生の仕組みについて


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


(i)*(-i)⇒+1の一人称自己認識方程式を基礎として考察していこう。(i)が原自己であり、(-i)が原他者である。そして、原自己⇒原他者という志向性(⇒)が存するとする。【明日野氏は、(i)を即非に、(-i)を対非と呼んでいるが、ここでは、それぞれ、原自己、原他者としたい。思うに、即原自己、対原他者とも呼べよう。この点は、後で整理したい。】
 さて、反差異(連続)的同一性主観(=自我・近代的自我)の発生についてであるが、「メディア界」(メディア空間)において、(i)*(-i)がまず、言わば、デュナミス(可能態)として存しているだろう。それは、静的な様相にある。しかし、なんらかの原因で、それが、エネルゲイア(動態、活動態、現実態)になる。そして、エネルゲイアは、即、現象化(エンテレケイア、終局態)へと転化すると考えられよう。思うに、時間とは、このエネルゲイアのことではないだろうか。主観においては、(i)*(-i)⇒+1となることが、自己形成であるが、自然的態度においては、(i)*-(-i)⇒−1(=自我)となると考えられるのである。(近代的自我とは、中心化された、あるいは、唯物論を抱く自我と言えよう。)
 では、何故、自然的態度においては、−1の自我になるのだろうか。先には、原他者との関係から生起する受苦を回避するため、生起すると考えたのである。受苦否定が、他者否定となり、結果、−1となるということである。
 この点を、より理論的に考察してみよう。志向性は、認識行為や表現行為、能動行為、等と考えられるだろう。例えば、知るという行為は、志向性に基づくのであり、この知的志向性から言語形成が発生すると言えるだろうし、また、表現行為からも言語形成が発生するだろう。(もっとも、表現行為は、視覚表現や聴覚表現や身体的表現等も含むのであるが。)
 とまれ、この志向性が現象界においても作用していると考えられるのである。しかしながら、メディア空間のデュナミスとは異なり、エネルゲイア/エンテレケイアの現象界(以下、現象空間)では、志向性は存するものの、いささか趣きが異なると考えられるのである。志向性は本来、差異共振シナジー化であるが、現象空間においても、主観は、それを継続すると考えられるのである。しかしながら、現象空間は、差異共振シナジー空間ではなく、同一性空間(基本は差異的同一性空間)であるから、志向性主観は当惑するはずである。否、衝撃を受けるはずである。天国から地獄へかもしれない。とまれ、思うに、現象空間は、差異的同一性個体・個物に満ちた空間である。(i)*(-i)である主観志向性は、他者である個体・個物と即非関係を形成するだろう。「わたし」は、「りんご」であり、且つ、「りんご」ではない。あるいは、「わたし」は、「ママ」であり、且つ、「ママ」ではない、等々。「りんご」である差異的同一性(特異性)、「ママ」である差異的同一性(特異性)が、「わたし」の眼前や周囲に存するのである。主観志向性は、このときに、特異性のサインとして、言語化すると思われるのである。つまり、「りんご」である「対象」を「りんご」と呼び、「ママ」である「対象」を「ママ」と呼ぶのである。そう、これは、差異共振シナジー・言語(サイン)と言っていいだろう。「わたし」と現象空間は、差異共振シナジー化しているのであるから。ここまでは、言わば、地上楽園である。
 さて、この地上楽園が崩壊する時がくるのである。「わたし」は、それまでは、「りんご」、「ママ」、そして「自然」と差異共振シナジー化していたが、あるとき、差異共振シナジーが成立しないときがくるのである。「りんご」は腐り、不快なものとなるのであり、また、「ママ」は、「わたし」を顧みなくなるのであるし、「自然」は、豊かな恵みをもたらさずに、飢饉となるのである。「わたし」と他者との差異共振シナジーは、破綻するのである。これが、−(−i)を意味するのではないだろうか。共振ではなく、非共振、反発、排斥である。「わたし」と「他者」は、いわば、疎外関係にあるのである。よそよそしい関係、あるいは、敵対関係にあるのである。感情的に言えば、冷たさが生起するのである。冷暗さである。(i)*-(-i)⇒−1がここに発生しているのである。自我の発生である。自己から自我への転換である。聖書で、アダムが禁断の知恵の実であるリンゴを食したとあるが、この知恵とは、二元論ないし二項対立の知恵である。西洋文明の知恵と言ってもいいだろう。客観主義的知恵と言ってもいいだろう。聖書の観念を借りれば、エデンの園とは、差異共振シナジー生活世界のことと考えることができるだろう。ユダヤキリスト教では、アダムの犯した原罪であるが、これは、以上から、主観と他者との疎外関係、主観と他者との二元論的分離と見ることができるだろう。結局、−(−i)の最初の−が二元論分離を引き起こしたものであり、先にも述べたが、「悪魔」なのである。
 しかしながら、主観と他者の疎外であるが、もし、主観と他者との差異共振シナジー関係が、自然に回復されれば、−は消えて、再び、(i)*(-i)⇒+1の差異的同一性の世界に回帰するだろう。しかし、人類史において、自然回帰する思想をもったのは、広義の東洋・アジア文明であるが、自然回帰を否定した一神教西アジアに誕生して、西欧、アメリカに伝わり、西洋文明が形成され、世界を支配したのである。そして、これが、現代において、人類絶滅の危機をもたらしているのである。
 一神教・超越神・父権宗教、これは、主観と他者との疎外関係から発していると言えよう。そう、これは、現象空間を超越して、メディア空間(ないしイデア空間)に回帰した宗教・信仰・思想であると言えよう。現象空間への否定がここにあるのである。つまり、現象空間への冷暗さ・僻み(ひがみ)・妬み・嫉み(そねみ)・恨み・憎しみ・嫌悪・侮蔑等のルサンチマンに基づくのである(スピノザならば、悲しみと簡単に言う)。現象空間への反動・反発・憎悪(ルサンチマン)から、絶対超越的に、メディア空間へと飛翔しているのである。つまり、これは、一種(i)*(-i)への回帰なのであるが、しかし、(i)*- (-i)⇒−1をもった(i)*(-i)なのである。つまり、分裂しているのである。反現象空間主義とメディア空間主義の二重性なのである。即ち、現象空間とメディア空間との断絶が、一神教の特徴である。ここには、分裂・矛盾があるのである。メディア空間は、現象空間を志向するのである。つまり、(i)* (-i)⇒+1である。しかし、反現象主義なので、+1を否定して、−1とするのである。つまり、+1と−1とが矛盾分裂しているのが、一神教であると言えよう。一種精神分裂症(統合失調症)である。即ち、自己(差異的同一性)と自我(反差異・連続的同一性)との矛盾分裂である。(そして、これは、深層心理学の様相そのものでもある。深層心理学は、一神教の精神分裂症の20世紀的発現に過ぎないだろう。)これが、西洋文明の「精神」なのであるが、近代において、自我が中心となったために、自己性が喪失して、唯物論的二元論・二項対立(唯物科学・近代科学)が発生して、それと資本主義が結合して、真に悪魔的なシステムが発生したのである。即ち、反差異・連続的同一性=近代的自我=唯物科学的資本主義である。
 以上で、当問題に解答したと考えられる。


p.s.
■自然的態度と一神教

以上の考察は、明らかに混乱している。自然的態度、すなわち、−1の発生原因を追求するのが本稿の目的であったが、一神教による−1の発生の説明になってしまっているのであるから。
 後で、再考したい。