後期デリダ哲学とプラトニック・シナジー理論:2つのフランス・ポス

後期デリダ哲学とプラトニック・シナジー理論:2つのフランス・ポストモダンドゥルーズデリダ


テーマ:プラトニック・シナジー理論


私はデリダに関しては、初期のものをいくらか読んで、後期のものは、読んでいないが、高橋哲哉氏の解説書『現代思想冒険者たち 第28巻 デリダ 脱構築』(講談社http://www.amazon.co.jp/gp/product/406265928X/sr=8-8/qid=1163044753/ref=sr_1_8/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books
を拾い読みして、後期デリダ(ないし晩年デリダ)哲学が、プラトニック・シナジー理論と共通する思想になっているのを発見した。推察するに、後期デリダは、ドゥルーズ哲学のキータームの特異性singularityの真正な観念を、自己の脱構築理論に組み入れて、フランス・ポスト・モダン思想に、不連続性の観念(キルケゴールニーチェフッサール)を明確に定置したと考えられるのである。ドゥルーズの場合、特異性が、ほぼ名ばかりで、差異=微分に吸収同化されたのに対して、デリダは、真正な特異性(単独性)の概念をキルケゴール哲学から回復していて、ポスト・ドゥルーズ的ポスト・モダンを成し遂げたようである。とまれ、以下、高橋氏の著書から抜粋する。

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《引用開始》
デリダはまず、キルケゴールとともに、アブラハムの「秘密」に注目する。アブラハムは神の命令に応じるという自分の決定を、妻サラにも明かさない。・・・

  アブラハムは、決定の瞬間にはつねにたった一人で、自分自身の単独性(=特異性[singularité])に引きこもっていなければならないという責任を引き受ける。私の代わりに死ぬことが誰にもできないように、私の代わりに決定をすること、決定と呼ばれているものをすることはだれにもできない。ところが、話すやいなや、人は単独性を失う。・・・(『死を与える』) pp.229-230

      ・・・・・

すべての他者はまったき他者だ
 キルケゴールの『おそれとおののき』の議論は、倫理的なものの犠牲による宗教的なものへの超越、キリスト者としての信仰への飛躍を証しするものである。デリダは、この倫理的なものの犠牲というモチーフを深く受けとめながらも、しかし「絶対的責任」を、キリスト教のような特定の宗教ー・・・ーの文脈に収めることをしない。彼にとってイサク奉献の物語は、アブラハムをなんらかの形で信仰の始祖の一人とする「アブラハム的宗教」(三大一神教)の引力圏を超えて、「責任についての最も日常的で最も一般的な経験」にかかわっている。そしてこの解釈の梃子(てこ)になるのが、Tout autre est tout autre. というフランス語の表現だ。・・・、ここでは、「すべての他者はまったき他者だ」という定式として問題になる。
 デリダによれば、アブラハムの「神」とは、「他者であり唯一者であるかぎりでの絶対他者の名」である。しかし、他者であり唯一者であるような絶対他者は、アブラハムの神だけではない。アブラハムにとってはイサクやサラやエレアザールのような他者も、それぞれに「他者」にして「唯一者」であり、他の他者とは交換不可能な特異な他者、他から切り(ab-)離された(-solu)絶対的(absolu)な他者である。すべての他者は他者として、私に対して根源的には現前せず、未知にして到達不可能、秘密にして超越的、無限に他者でありつづける他者なのだ。わたしの家族や隣人でさえ「ヤハヴェと同じく」まったき他者だ、とデリダはいう。「すべての他者はまったき他者だ」。     pp. 234-235


《引用終了》
注:イタリックはデリダの引用文である。
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以上の高橋氏によるデリダの他者論は、私が先にキルケゴールの主体性=特異性について述べたことと共通である。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10019160104.html
即ち、キルケゴールの『おそれとおののき』の主体性=特異性=他者論を、私は、プラトニック・シナジー理論のメディア空間の自己⇒他者の超越的倫理として把捉したのである。この超越的倫理は、当然、超越神との関係だけでなく、他者一般との関係に一般化されるのである。そこで、私はポスト一神教としての新多神教と説いたのである。これは、超越的新多神教と言うべきで、一神教多神教との統一である。これは、一神教でもないし、これまでの多神教でもない。一神教の超越性と多神教の多元性を結合したものである。
 とまれ、デリダアブラハムキルケゴール的他者論は、正に、超越的新多神教と合致すると言えよう。デリダは、後期・晩年において、それまでのポスト・モダンを乗り越えて、プラトニック・シナジー理論と共通の倫理の高みに達したいたと言えよう。後期デリダ哲学は、プラトニック・シナジー理論の先駆の一つにあげることができるように思える。キルケゴールニーチェフッサールウスペンスキーフッサール鈴木大拙西田幾多郎、後期デリダ、というプラトニック・シナジー理論の哲学的先駆者をあげることができる。