反差異的同一性=自我=自然的態度の発生力学について:近代的自我発

反差異的同一性=自我=自然的態度の発生力学について:近代的自我発生原因試論


テーマ:プラトニック・シナジー理論


簡単に触れるが、先の論考は、一神教に関するものになってしまった。そうではなくて、一般の自然的態度(フッサール)=自我の発生について理論化したいのである。
 (i)*(-i)⇒+1という自己認識方程式が、自然的態度=自我の場合は、成立せずに、(i)*-(-i)⇒−1になってしまうのである。しかし、これは、一神教における場合と同じ同じである。ただし、(i)*(-i)を超越神という形態でもっているのである。しかし、近代的自我においては、その超越次元が、反差異的同一性と唯物科学によって喪失されているのである。
 だから、洋の東西を問わず、(i) *-(-i)⇒−1という近代的自我ないし自我の方程式は成立すると考えられる。今の私の直観では、−(−i)の最初の−とは、(−i)の反動と思われるのである。つまり、(−i)の力を否定しているのである。ならば、(−i)の力とは何なのか。そう、対極性の力である。即非の力である。比喩的に考えてみよう。(i)を男性、(-i)を女性としよう。あるいは、逆でもいい。両性は牽引と同時に反発しあうだろう。差異は差異であり、他者は他者であるが、同時に、差異は他者と一如なのである。即非・対極関係である。つまり、ここには、プラスとマイナス関係が共立しているのではないだろうか。換言すると、志向性とは、牽引と斥力が同時存在(即非)しているのであり、単に、能動だけでなく、反動も含んでいるのではないだろうか。不連続的差異論誕生後間も無い頃、私は、差異の垂直性と水平性ということに言及した。垂直性とは、分立性であり、独立性であるから、斥力に当たるだろうし、水平性とは、牽引に当たるだろう。ということで、メディア空間において、(i)*(-i)の*は、+且つ−を意味するのではないのか。(i)+(-i)が、牽引関係であり、(i) −(-i)が、斥力関係ではないだろうか。この即非関係がメディア空間にあり、揺らいでいるのではないだろうか。いわば、根源的ユラギである。換言すると、共感性と反感性のユラギである。共感は反感であり、反感は共感である。(反感という言葉は少し意味が強過ぎるかもしれない。向自性と言えるかもしれない。つまり、志向性が対自性ないし向他性であるが、それの対極としての、向自性である。あるいは、反転性である。つまり、対他志向性と他自志向性の両志向性が同時存在しているのが、メディア空間の(i)*(-i)ではないのだろうか。そのように考えられるならば、スピノザの能動歓喜論やフッサールの志向性論は訂正が必要となるのではないだろうか。零度ということは、±零度である。+で即となり、−で非となるのだろう。(ここで、「愛」と呼ばれるものが、幻想であることがわかるだろう。即非関係が根源ならば、即であったり、非であったりしているのあり、即非共立性が正しいのであるからだ。共感性という言葉は、まだ一面的である。共振性もそのきらいがある。思うに、即の場合は、反差異的同一性であり、それを人は「愛」と呼んでいるのではないだろうか。しかし、それは、自我所有欲の別名だろう。「愛」=私欲である。後で、もう少し考察したい。)
 考察がやや不分明ではあるが、対自性と向自性の対極性があるすれば、反差異的同一性とは、思うに、どちらかに偏ったときに形成されるのではないだろうか。即ち、(i)⇒(i)=−1、あるいは、(i)⇒(-i)即ち、(-i)*(-i)=−1ではないだろうか。自己没入と他者没入である。自我ないし近代的自我は、(i)*-(-i)=−1が多いと思うが、結局、これは、メディア空間の即非関係が、二元論になることを意味しているだろう。二元論を⇔で表記すれば、(i)⇔(-i)が主客二元論となるだろう。
 では、即非関係を二元論関係にする力学は何か、となるだろう。とまれ、結局、メディア空間には、±1が存しているのではないだろうか。正確に言えば、プロト・±1だろう。そして、現象化とは、プロトが取れて、±1となることではないだろうか。つまり、自己と自我の両者が生起するのである。しかし、近代的自我の場合、自己が無化されて、自我のみとなるということではないだろうか。つまり、プロト・+1ないし+1(⇒+1)が否定されるということだろう。考えてみれば、近代的自我とは、デカルトのコギトとは、似て非なるもの、否、まったくの別ものである。なぜなら、近代的自我とは、客観的他者、二元論における他者の知識を基礎とするのであり、自己の知識を無視しているのであるから。つまり、近代的自我=近代的合理主義とは、(i)*-(-i)⇒−1なのである。そして、(i)という原自己(即自)のみを、他者に見ているのである。正に、自己投影である。他者を見ているのではなくて、自己を見て、それを他者と錯覚・妄念しているのである。そして、(i)が反差異・連続的同一性の「アトム」・「原子」・「元素」であると言えるだろう。より正確に言うと、言語観念の単位であるということである。(i)=言語観念である。そして、これげ敷延されて、「アトム」・「原子」・「元素」となるのである。また、「粒子」・「素粒子」となるのである。つまり、これは、「物質」のプロト単位でもあるのである。つまり、(i)においては、言語観念即「物質」観念である。観念論即唯物論である。また、心身二元論である。
 近代は、(-i) の喪失なのである。自己(i)を他者に投影しているのである。鏡像である。では、この原因は、何なのか。これは、近世ないし近代初期における遠近法の形成とパラレルである。《光》で言うと、(-i)の「光」を避けているのである。(i)が光・陽ならば、(-i)は闇・陰であろう。問題は、ある意味で振り出しにもどっているが、何故、(-i)を避けるのか。もっとも、ロマン主義のように、(-i)を取り戻そうとする運動が現れた。しかし、それは、-(i)* (-i)⇒−1になってしまっただろう。
 何故、西欧近代において、(-i)を否定する(i)の強化が、生起して、近代的自我・近代合理主義・唯物科学・技術が興隆したのか。今、思ったのは、西欧人の精神にキリスト教二元論(善悪二元論)が、言わば、固定観念のように、あるいは、先入観・偏見として、あるいは、色眼鏡として存しているので、いわば、自己否定する(-i)を認めることができなかったのではないだろうか。



http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Abraxas_Louvre_2006.jpg


 イタリア・ルネサンスにおいて、差異が賦活・活性化された。(i)*(-i)が新たにエネルゲイアとなったのであり、創造の時代となったのである。イタリアは、南欧であり、カトリックの国であるとは言え、異教性、母権制、東洋性のある郷国である。だから、差異、(i) *(-i)は、ほぼ積極的に肯定されて、大文化運動となったのである。しかるに、西欧においては、キリスト教的二元論精神が強かったと考えられるのである。それで、宗教改革を生んだと思えるのである。とまれ、このキリスト教的二元論の先入観的枠組み・拘束があり、そのために、賦活・活性化された(i) *(-i)は、否定されざるを得なかったのではないだろうか。つまり、キリスト教二元論的自己(i)は、「悪魔」である(-i)を否定して、成立しているのであるが、ルネサンスは、「悪魔」(-i)を賦活・活性化したのであるから、西欧精神の自己にとっては、(-i)を否定せざるをえないのではないだろうか。だから、−(−i)である。そして、その結果、近代的自我の(i)の反差異的同一性は、近代科学・技術・資本主義を発生させたと言えるのではないだろうか。ウェーバープロテスタンティズム的資本主義論は正鵠を射ているのと言えよう。結局、西欧近代とは、ルネサンス的差異・エネルゲイアを、キリスト教的二元論的自己主義によって、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義へと変成したものではなかったのか。(私は、以前、プロテスタンティズムは、ルネサンスを否定的に内包しているというようなことを述べた。)
 ということで、何故、−(−i)の最初の−が発生したかの理由であるが、これまで、かなり紆余曲折し、また、上記では、混乱した部分があるが、結局、キリスト教二元論的反差異的同一性=自我精神が原因であるという結論に達したのである。