なぜ、主体は、自己投影して、他者を否定し、自己優越化するのか

なぜ、主体は、自己投影して、他者を否定し、自己優越化するのか


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


この問題は、以前、検討したことがあるが、もう一度、検討したい。
 主体は、自己連続的同一性を他者に自己投影し、押しつけるようにして、他者認識するのである。i→-(-i)である。否定のマイナスが入り、他者-i を同一性化するのである。先に私は、他者による主体に対する同様の否定についても述べた。即ち、-i→-(i)である。両者、−1に帰結するのである。この他者による主体への否定・連続的同一性作用は、主体への攻撃であるから、当然、主体は、反撃するだろう。つまり、ここには、主体と他者(客体)との相互攻撃が発生しているのである。永遠の闘争である(参照:ホッブズ)。
 とまれ、問題は、自己優越である。これは、二項対立(ヒエラルキー的二元論)と結びつく。あるいは、父権主義と結びつくのである。神話学的に言えば、地に対する天の優位である。女性に対する男性の優位である。これは、ポスト構造主義で、おなじみの図式である。主体 iは、認識衝動である。連続的同一性の認識衝動である。
 優位/劣位、優越/劣等、とは何だろうか。この関係は反転するものだろう。優位・優越が、劣位・劣等となるだろう。ヘーゲル弁証法であろう。つまり、これは、主体と他者との相互否定事象の様相・様態ではないのだろうか。つまり、主体は、他者(差異)に対して、優位であると「思い上がる」のであるが、しかし、他者自体も、自分が優位であると「思い上がる」のである。(一種錯誤や妄想に近いと言えるだろう。)
 とまれ、この相互的能動否定相は、快感・快楽なのだろう。自己陶酔、ナルシシズムである。とまれ、この連続的同一性能動否定相は、現象化である。つまり、現象化とは、連続的同一性化である。つまり、現象化(人間的現象化)とは、−1の倒錯化である。差異共振シナジー即非事象から、おそらく、1/4回転して、連続的同一性化して現象化するのである。これが、相互的能動否定様態である。
 では、なぜ、優越性、自己陶酔、慢心・傲慢が発生するのか。ここで、発想を少し変えると、相互否定とは、結局、i=-i=連続的同一性ということであり、ここには、実は、主体i も、他者-i もなく、ただ、連続的同一性である−1が支配していると言えるのではないだろうか。これが、自我、近代的自我である。そして、客体の物質である。
 以前の私のこの問題への解明の試論は、超越次元(虚軸)から、現象軸(実軸)を見ることに原因を考えた。とまれ、これは、また、アポリア(難問)である。自己投影とは、自己陶酔であり、自己盲目であり、慢心である。否定することで、他者を「無くす」ことで、自己同一性化すると言えるだろう。しかし、これは、実は、自己喪失なのである。主体iが他者-iを否定したとき、主体は、i=iとなり、他者を喪失して、差異である主体性を喪失するのである。つまり、主体iとは、他者-iと即非・対極性にあってこそ、主体なのであるからである。主体のもつ能動的否定的同一性は、自己否定であり、自我形成である。倒錯である。転倒である。ここには、認識のもつ罠ないし未熟さがあると言えよう。
 思うに、自己投影とは、未熟な認識手段なのである。他者を認識するための、素朴な幼稚な手段なのである。現象化によって、iと-iとが、いわば、剥き出しになっている様態にある。このとき、iは、自己投影して、-iを認識しようとするのである。反差異・連続的同一性認識である。言語獲得による認識だろう。思うに、仮説として、主体iにとり、自己同一性認識が必然性であると考えられるだろう。つまり、iは、連続的同一性形式を希求するということである。これが、iの欲望なのである。だから、他者-iに対して、連続的同一性形式を適用したときは、快感・満足、即ち、自己陶酔なのである。これが、同時に、優越・優位感であると考えられるだろう。
 これは、ヘーゲルの理性様態であろう。私は、全存在としての私である。この全存在性とは、何だろうか。直観では、これは、-i の要素が入っているのである。全体感である。これは、コスモス感性に近い。コスモス感性とは、即非の感性である。これをどう理解したらいいのだろうか。思うに、即非・対極的コスモスを、連続的同一性の全体性に変換しているのではないだろうか。そう、他者-i に主体i を押しつけたとき、i=-i となり、即非でなく、連続的同一性結合が生起すると言えるのではないだろうか。i=-i の等号が、連続的同一性であり、両辺全体で、全体性であろう。そして、この等号は、言語であろう。即ち、主体i である「わたし」は、他者-i と同一であるという全体感、一体感をもつだろう。そして、これは、i→-iの→の志向性・エネルゲイアに拠るものである。そして、これが、+エネルゲイアならば、-i→iの−エネルゲイアも、これと一致するのではないだろうか。即ち、i⇔-i であり、結果、i=-i である。つまり、主体iは、他者-iに自己投影し、他者-iは、主体iに自己投影する。その結果、主体と他者との一致が生起するのではないか。i=-i 、これが、全体性、ヘーゲルの理性だろう。即非ならば、i≠-iであり、且つ、i=-iである。全体性は、≠が消失しているのである。差異の消失である。反差異・連続的同一性のエネルゲイア(エネルギー)が、ここには作用しているのである。このエネルゲイアが、主体の自己優越性なのだろう。主体i が、他者-i を否定して、自己同一化しているのである。そして、これが、全体的同一性、ミクロ・全体主義である(ヘーゲル哲学は、国家主義である)。
 しかしながら、問題は、このエネルゲイアは、-i→i を含んでいるので、実は、他者によって、主体は否定されているのである。つまり、主体の全体的同一性とは、他者の全体的同一性でもあるのである。つまり、個人で言えば、精神は、身体に支配されることになるのである。近代合理主義は、非合理主義に支配されるのである。(ファシズム全体主義の発生は哲学的にはこれで説明できるだろう。)応用的に言えば、近代科学・技術の発達は、他者である自然を支配したかのようであるが、逆に、自然破壊によって、自然に支配されることになるのである。これは、近代教育にも当てはまるだろう。近代的理性教育をしても、他者である生徒に逆襲されているのである。イジメや自殺や学力低下、等々。
 結局、近代主義は、連続的同一性化である現象化のもつ袋小路なのである。これは、人類史の一つの終点であろう。この現象化から、今は、脱却する必要があるのである。
 では、この力学は何なのだろうか。先に、−エネルゲイアの原因を示唆したが、それはここでは否定された。つまり、現象化のエネルゲイアではなく、脱現象化のエネルゲイアの発動が考えられるだろう。私の直観では、1/4回転によって、垂直に捩れて、現象化が発生するとすれば、次の1/4回転によって、垂直への捩れが解消することが、脱現象化である。2/4回転によって、零度が解消するのであり、このとき、差異共振性による現象化=連続的同一性化が解消されると思われるのである。つまり、根源的不連続的差異に回帰するように思われるのである。そうすると、現象化は、解体するのである。零度を超えて、マイナスになるのではないか。
 思うに、脱現象化、マイナスとは、死のエネルギーではないか。現象化のエネルギーが生のエネルギーならば、これは、死のエネルギーである。そうならば、これは、フロイトの言った死の欲動とは異なるものである。フロイト死の欲動とは、実は、生のエネルギーと考えられるのである。ここでの、脱現象化=死のエネルギーとは、正に、解体である。差異共振も解体するのである。根源的な不連続的差異の共立へと回帰するのである。そう、以前プラトニック・シナジー理論の成立に際して述べたように、この不連続的差異の共立への回帰によって、メディア界の連続的同一性化が解体して、差異共振シナジーが生起すると考えられるのである。つまり、2/4回転に拠る脱連続的同一性化のエネルギーによって、差異共振化が発生するということになろう。記号・符号の問題があるが、連続的同一性のエネルギーを、連続エネルギーとすれば、脱連続的同一性のエネルギーは、不連続エネルギーと言える。連続エネルギーが否定のエネルギーならば、不連続エネルギーは、否定の否定のエネルギーとなるだろう。あるいは、肯定のエネルギーだろう。否定のエネルギーをNエネルギーとすれば、肯定のエネルギーはPエネルギーである。そして、±Nエネルギーと±Pエネルギーがあることになる。
 とりあえず、今は、ここで留めたい。