近代合理主義・近代的自我の二項対立・二元論について

近代合理主義・近代的自我の二項対立・二元論について


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


今は、簡単に触れるが、先の検討を、継続したい。
 i*(-i)⇒+1という自己認識方程式における左辺の様態についてであるが、iは、主体の認識であり、-iは、他者であり、対象・客体であり、且つ、他者の認識である。そして、i は、他者-i に自己投影し、その投影像と一体となり、認識行為を行なうのである。この自己投影像は、連続的同一性の像である。言語は、この連続的同一性構造(デリダの言ったロゴス中心主義)を確立するための骨格の役目をするだろう。つまり、フレームである。連続的同一性(構造)のフレームとしての言語であると考えられる。図式を試みてみよう。


1.《主体i 》⇒2.認識⇒4.自己投影・反射像←//3.《他者-i 》


//は、不連続的境界である。1.主体は、2.認識を、3.他者に向けるが、他者を直接認識せずに、4.反射像を把捉するのである。私の直観では、2.認識は、光と関係している。つまり、視覚である。反射像が、視覚の網膜に投影される。倒立像である。しかし、この反射像は、多様な他者(複数)と関係して、同一性ではないと思われる。おそらく、主体i と他者-i との即非関係にあるのである。ないし、対極関係である。主体と他者とが分離したり、一如(一体化)であったりするのである。つまり、まだ、遠近法的地平は形成されていないのである。それは、反射像と他者とが、まだ、分離しているからである(表象と物自体)。
 問題は、主体は、反射像と一体化して、認識の基礎とすることである。思うに、主体⇔《光》⇔他者であり、この光を主体は、認識しようとして、反射像を利用するのである。この図式に更に書き込めば、


主体⇔陽エネルギー⇔《光》⇔陰エネルギー⇔他者


ではないだろうか。反射像とは、陽エネルギーの作るものであり、《光》の映像そのものではないのである。だから、


主体⇔反射像⇔《光》⇔シャドウ?⇔他者


である。問題は、反射像と光とシャドウ(影)との関係である。主体を心、他者を身体とすれば、心は、反射像を把捉しながらも、身体の影を漠然と感じているはずである。そして、先に、反射像を光、影を闇と呼び、光と闇の共存(共立)性を述べたのである。そして、デカルトは、連続的同一性である光を選択して、闇(身体・情動)を排除したと述べたのである。
 また、ここでも、用語の混同があるのである。上記の《光》と反射像の光が混同されるだろう。ここで、用語を明確・明瞭に区別しないといけない。暫定的に、反射像を反射光ないし同一性光と呼び、《光》は光としておこう。つまり、主体は、光を連続的同一性構造の枠にはめて、見ているのである。(勘では、この同一性光が、相対性理論を意味するのではないだろうか。)わかりやすく言えば、主体は、iの同一性形式で、光を見ているのである。だから、i*i⇒ー1である。(ー1が同一性光ではないだろうか。)
 わかりやすくするため、主体を陽、他者を陰とすれば、陰陽様相で光が発している。この光は、陽極と陰極を当然もっている。そして、主体は、陽極の反射光を見るときは、陰極の影を脇にやるのである。これは、陽と陰との分離的並存である。
 しかし、近代的自我においては、陽極の反射光に連続的同一性化して、陰極の影を排除するのである。直観では、この否定・排除の力学には、言語確立が深く関わっているのである。そう、問題は、言語とは何かである。他者・対象Xがあるとしよう。それを、主体は、「やま」と呼び、「山」と書く(描く)のである。この「やま」・「山」は、「かわ」・「川」からは絶対的に区別されるものである。また、当然、主体からも区別されるのである。山≠川、山≠私である。これは、正に、反差異・連続的同一性としての言語である。本来、他者・対象Xと主体「わたし」は、即非*様相である。だから、X=「わたし」であり、且つ、X≠「わたし」である。光はXと「わたし」を橋渡ししているのである。光の他者面が「山」となり、光の主体面が「わたし」である。
 だから、言語が自我ないし近代的自我形成の原因と見ていいように思う。というか、言語中心主義が原因である。ここに、グーテンベルク活版印刷術の発明が考慮すべきであろう。言語が認識において、中心化するようになったのである。デリダの説いたロゴス中心主義批判であるが、ロゴスとは、言語のことと言えば、それは、正しいだろう。(西欧近代において、ヨハネ福音書の冒頭の「初めにロゴスありき」のロゴスが言葉と訳されたのである。誤訳である。)言語中心主義が、近代合理主義、近代的自我の起源であろう。それは、明らかに、リアリティである光を排除するのである。
 では、次に、反射光と光と影の関係をさらに検討しよう。有り体に言えば、反射光、言語で限定された反射光を、自我は見ていることになるが、自我にとり、光とは何だろうか。つまり、連続的同一性化した反射光を自我を視覚しているのであり、光や影は排除していると言えるだろう。

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| 反|     ・     |
| 射|     ・     |
| 光| 光   ・  影  |
|  |     ・     |
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又は、


反射光←|壁|→光、影

である。問題は、現象界の光とは、何だろうか。思うに、現象光は、本来、光そのものである。しかし、自我、近代的自我は、光の反映である反射光しかみていないことになるだろう。
 では、相対性理論とは何だろうか。先に、反射光がそれに関係しているのではないかと言ったが、正しくは、思うに、物理化された反射光を介して、光を観測しているのだろう。陰陽即非の光の様相を相対性理論は説明しているのではないだろうか。なぜなら、陰陽即非の光とは、永遠であり、無限であるからである。この永遠・無限の連続的同一性化が、光速度一定として記述されるのではないだろうか。i*(-i)⇒+1の+1とは、又、光速度一定を指してもいるのではないだろうか。今は、ここで、留めたい。