自己認識方程式と志向性と形相/質料の関係について:2

自己認識方程式と志向性と形相/質料の関係について:2


[ 自己認識方程式:i*(-i)⇒1 ]


本稿では、形相・質料の問題を自己認識方程式と志向性との関係において考察したい。
 1の考察では、「我」(=主体i)を心身体とし、それの志向性を連続的同一性自我として考えた。そうすると、それ以前の考察の内的他者を-iにするという考えは放棄することになる。しかし、本当にそれでいいのだろうか。
 もう一度確認しよう。「我」を心身体としたが、それは、差異共振シナジー態である。つまり、即非態である。そして、それが、外的他者を志向するとき、連続的同一性化して、自我になると考えたのである。即ち、i*-(-i)=i*i⇒1である。他者-iは、当然、外的他者である。しかし、このとき、「我」=主体は、i*(-i)の即非態を喪失していると考えられる。ならば、「我」=主体は、単に、iではなくて、i*(-i)でなくてはならないことになる。この齟齬をどう解決したらいいだろうか。
 これは、簡単である。「我」=主体は、iではなくて、i*(-i)と訂正すればいいのである。心身態としての「我」=主体は、i*(-i)の即非態である、ということである。だから、内的他者という考え方であるが、それは、「我」=主体=i*(-i)そのものが、本来、内的他者を内包すると見ることができるだろう。これで、先の問題点が解消されたと考えられる。
 では、本論に入ろう。「我」=主体=心身態=i*(-i)ならば、これが、形相であろう。そして、質料であるが、それも、同一ではないだろうか。つまり、形相=質料ではないだろうか。つまり、i*(-i)を、形式面から見たら、形相であり、内容面から見たら、質料ではないのか。プラトンの有名なコーラであるが、それは、この質料に相当するだろう。また、アリストテレス哲学を考えると、デュナミス=エネルゲイアではないだろうか。西洋哲学は、形相と質料を二元化したのであるが、その原因は、志向性の終局態(エンテレケイア)から考えているからではないか。つまり、連続的同一性の結果から原理を考えているのではないか。なぜなら、志向性の結果は、自我の思惟と身体・対象の延長が二元論化するのであるからである。i*-(-i)⇒1であり、連続的同一性自我=心と、他者=身体・延長が分離すると考えられるのである。心身二元論である。そして、心を形相に、身体・延長を質料に還元したのではないか。
 ここで、想起するのは、私事であるが、何年か前、魂質という概念を考えたことがあるのである。これは、魂と質料とが一体となっている概念であり、これを根源(アルケー)としたのである。ここから、心と身体の二元論が発生すると考えたのである。しかし、魂質という命名はいかにも、折衷的であり、妥協的である。だから、以上のような一元的な(即非的な)主体を考えた方が的確であろう。
 では、さらに考察を深めると、iとは原・心であり、-iは、原・身体ではないのかという考えが浮かぶのである。あるいは、それぞれ、原・光と原・闇ではないかと思うのである。この対極が結合して、心身態の玄光・真如光を生んでいるのではないだろうか。つまり、人間の原点は、玄光・真如光であるということである。そして、光の理性界と闇の身体界があるのではないだろうか。そして、これが、西洋文明において、完全な二元論になったのである。マニ教的であると思う。しかし、ゾロアスター教的ではないだろう。ゾロアスター教の光・火は、玄光・真如光を指していると思われるからである。【奈良東大寺二月堂のお水取りの火は、拝火教と関係があると思われるし、また、修二会(しゅにえ)は、陰陽と関係があるのである。
http://www4.plala.or.jp/igasaki/history/enbou/enbou.htm
 また、さらに、iは男性で、-iは女性ではないかと思うのである。明日野氏は、iを天の方向、-iを地の方向としていたが、それにも関係するだろう。もう少し正確に言えば、iは能動性で、-iは受動性ではないだろうか。そして、両者が対で、主体の原型を形成している。そして、男性は、iの傾斜をもち、女性は-iの傾斜をもっているように思うのである。しかしながら、より精緻に考えて、根源の精神と結果の物質を考えると、根源精神においては、女男問わず、両極をもっている。この点では共通である。しかしながら、男性は、iの傾斜があるのだと思う。女性の方が、両極のバランスがとれているように思うのである。つまり、女性の方が、均衡があり、本来合理的だと思うのである。そして、一神教が発達する前は、女性の精神に即した世界観があり、社会があったと考えられるのである。それが、多神教自然宗教である。あるいは、アニミズムである。即非・太極的世界である。そして、これが、人類においては、基本の世界観であったと思えるのである。神話学的には、女神の神話である。
 話をさらに神話へと向けると、この女性的な世界観が、男性神話、父権神話、一神教神話によって破壊されるのである。これは、明らかに、iに傾斜した男性が支配した世界・社会が到来したことを意味するだろう。これは、明らかに、バランスの崩れた世界である。暴力中心の世界である。この原因は何なのだろうか。女性的世界は、明らかに、自然と調和した世界であったろう。循環する世界である。円環的世界である。しかし、この世界は、進歩がないと言えるだろう。安定した世界であるが、緊張感がなくなるのである。冒険がないのである。とまれ、何らかの理由で、男性的価値観が優勢になったのである。連続的同一性志向性への傾斜が強化されたのである。イシス/オシリス神話で言うと、イシスから独立した様態である。肯定的に言うと、英雄性である。女性的価値観を邪悪視した男性的価値観の称揚があるのである。そう、連続的同一性「理性」の世界観の誕生である。つまり、西洋文明の元祖がここにあるということである。破壊に快感を見出す文明の誕生である。映画でいうと『2001年宇宙の旅』の冒頭の暴力・殺戮を旨とする人類の誕生である。
 ここの女性的価値観から男性的価値観へのシフトとは、何なのか。エネルギー論から見ると、連続的同一性志向性のエネルギーの活性化があったと考えられるのである。おそらく、何らかの原因があったはずである。腕力や暴力が必要となる事態が発生したのである。勘では、なんらかの天変地異があったのではないかと思う。そのために、自然と調和するだけの温和の精神様態では済まなくなったと推測できるのである。飢饉、旱魃、飢餓、等々があったと思うのである。そのとき、自然を変形し加工することが必要になったと思われるのである。工作である。そして、これが、父権的都市文明の発生となったと思われるのである。そう、ここには、略奪・強奪・奪取もあったろう。権力の発生である。国家の発生でもあるだろう。
 そして、これが、一神教であるユダヤ教キリスト教を生み、一神教的西洋文明を発達させたと言えるのではないか。そして、究極的に、近代文明が誕生したのである。これは、連続的同一性の究極的文明であり、その最終文明であり、今や、それが、衰退して、ポスト連続的同一性文明、トランス・モダン新文明へと転移しているのである。
 ということで、話が飛んだが、本稿を終える前に、簡単にまとめると、女性的世界から男性的世界へ移行は、不連続的であったと思うのである。そして、今日の、男性的価値から新たな女性的価値(女性の方が人間としてバランスが取れているから、人間の基準としては女性の方が適切である)への転換であるが、この移行は一見連続的に見えるが、しかしながら、連続的同一性自我文明の可能性・創造性が枯渇・衰退して、新たな価値観が、埋れていた中から、忘却の中から、生まれ出たということではないだろうか。「気」の価値観、対極性の価値観は、正に、そうだろう。つまり、ここには、正に、易経的な力学があると思うのである。陰陽のバランスから陽極へと傾斜した(父権制一神教・連続的同一性自我)。しかるに、陽極まれば、陰に転ずである。そうすると、らせん的歴史があるということになるのではないだろうか。