光/闇・善/悪一如(一体)について:アポロとディオニュソス

光/闇・善/悪一如(一体)について:アポロとディオニュソス


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


Kaisetsu氏が興味深い新説を立てていられるが【参照:『蘇民将来(ソミン・ショウライ)について(新説)』http://blog.kaisetsu.org/?eid=499863 】、それとは直接関係ないが、蘇民将来についての伝説で治癒神としての素戔嗚尊スサノオノミコト)が出てきて、神話学に関する興味が湧いたのでここで、先の善悪二重性の考察に関係させて、考察したい。
 結局、自己認識方程式i*(-i)⇒+1の問題である。私は、これを少し変形して、i#(-i)⇒|1|と1の絶対値にして、#とは、*の場合と*-の場合を含めることにして、±1の両方の場合を含めることにする。
 イデア・メディア次元から現象次元へと転換すると、±1の極性が発生すると考えれるのである。虚軸の極性±iから実軸の極性±1へと転換すると言えるだろう。先の考察等から、+1が光であり、−1が闇であるということになり、これら二重性が現象界に生起すると考えられるのである。しかし、これは、基本的に対極性・陰陽性であり、分極・極性ではあっても、二元論的には分離していないのである。そして、これが、前近代的世界観の基礎であると思われるのである。これは、東洋的世界観であり、また、キリスト教以前の西洋の世界観であったと考えられる。【キリスト教的西洋(西欧)においては、極性から善悪二元論へと分離したと考えられる。一般に一神教は二元論的である。】
 これについて、神話学、文化史、文化人類学、他的に見ると、例えば、以前、たいへん流行した山口昌夫の両義性論がこれを指摘していると考えられるだろう。あるいは、ニーチェのアポロとディオニュソスの対称概念であるが、これも、アポロを+1、ディオニュソスを−1として、太極・両極性と見れば、対が一如・一体であることがわかるだろう(参考:先に、ジョルダーノ・ブルーノの一性論について懐疑的であったが、一性を対極的一如・一体性と見れば、ブルーノの哲学は、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆であると言えるだろう。)。ギリシア神話エウリピデスの『バッカスの信女』やニーチェの『悲劇の誕生』等を見ると、アポロの両義性、ディオニュソスの両義性が説かれている。これは、絶対値1の視点からすれば、当然である。自然(現象)は、善きものであったり(+1)、悪しきものであったり(−1)するからである。そして、この対極性については、また、格言等に多く見られることである(例:塞翁が馬)。ニーチェ古代ギリシア人に戻れば、彼らは、自然の両義性を知悉していたと言えるだろう。そして、この両義性・対極性を認識することが叡智(ソフィアsophia)であったと言えるだろう。(もともと、哲学philo-sophia とは、この叡智・愛であると言えよう。)道徳的に言えば、善にもなり、悪にもなる自然の均衡としての倫理を認識していたと言えよう。「汝自身を知れ」とは、この絶対値1の自己を知れということであろう。即ち、善悪・光闇一如の自己心身の認識である。そう、より的確に言えば、彼らの倫理とは、善悪・光闇の均衡から来る均衡倫理であろう。そして、それは、根源的には、i*(-i)⇒+1を志向したであろう。そう、プラトンイデア論の善のイデアがこれであろう。つまり、プラトンの善のイデアとは、善悪の彼岸であり、ニーチェ哲学と一致すると言えるだろう。(キリスト教は、善悪二元論で、自然の対極性を破壊してしまったのであり、その結果、無意識の悪を内包することになったと言えるだろう。ユング心理学で言えば、影・シャドウを抱えたことになったのである。これは、近代的自我、近代合理主義と同様の問題である。)とまれ、ここで、対極倫理ないし均衡倫理、さらには、超越倫理をここで提起しておく(これは、絶対的相対倫理である。)
 では、素戔嗚尊について言うと、それは、ディオニュソスに当たると言えるだろうし、同時に、治癒神としてのアポロでもあると言えるだろう。【天照はある意味で、素戔嗚尊と対であり、一体であろう。そう、アポロである。しかし、アポロとディオニュソスは入れ替わると言えるだろう。つまり、素戔嗚尊がアポロとなり、天照がディオニュソスでもいいのではないだろうか。日御子とは、素戔嗚尊であろう。そして、それは、天照の御子であるだろう。ここで、問題は、i*(-i)の意味である。これを無や空として把握できるだろうが、神話的にはどうなのかである。また、イシス・オシリスの神話はどうなるのかである。イシス・オシリス神話については、先に、オシリスが光で、イシスは、i*(-i)であるとしたが、イシスを闇にすることができるだろう。つまり、イシス・オシリスは、光・闇、アポロ・ディオニュソスと同形であるという見方ができるのではないか。この方が的確であるのかもしれない。そうならば、素戔嗚尊と天照も同様となるだろう。また、天皇制や神道を考えると、天皇・日御子(いわば、イエス・キリスト)は、天照大神と一体であるということになるだろう。どちらが、光で闇かは、区別できないだろう。天皇が光であれば、天照大神は闇であろうし、天皇が闇であれば、天照大神が光となる。そう、ここで、想起するのは、黒い聖母、黒い太陽、玄牝である。黒い聖母や黒い太陽は、ここでの光・闇の対極性で説明できるだろう。つまり、対極性としての聖母マリアであり、太陽であるということである。しかし、玄牝は、違うと思う。それは、根源のi*(-i)であろう。無・空としての玄牝であろう。太極である。さらに、敷延すると、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)等の三柱の神であるが、ここの視点から、天之御中主神はi*(-i)の根源イデアであり、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)と神産霊神(かみむすひのかみ)は、光・闇の対極性であると言えよう。そう、イザナミイザナギの一対の神々であるが、それは、やはり、光・闇の対極性で説明ができるのではないか。】
 そう、治癒神について言うと、イエス・キリストも顕著に治癒神であった(目の見えないものを治した、等)。この点では、素戔嗚尊と一致するし、牛頭天王と一致するのである。つまり、イエス・キリストとは、本来、光・闇の対極性の神、アポロ/ディオニュソス、二重神、善悪神なのである。だから、イエスは、対になる女神と一体であると言えるだろう。つまり、イエスとペアになるパートナーがいるのである。イシス・オシリス神話で言えば、イシスに当たるものがイエスにはいることになるのである。それが、一般には、聖母マリアなのだろう。つまり、イエス・マリアの対極性があると言えるのである。そして、イエスは単に光であるばかりでなく、闇でもあるのである。強く言えば、悪魔でもあるのである。そう、ここで、問題になるのは、キリスト教で言う「父」である。「子」であるイエスは、マリアとペア・対である。±1である。すると、「父」は、i*(-i)ではないかと推論できるのである。つまり、無・空としての「父」となり、本来、中性であると考えられる。あえて言えば、両性具有である。だから、ヤハウェは本来、無・空としての「父」である。そして、さらに、アッラーも、無・空としての「父」であろう。
 そう、この視点から一神教を考察しよう。一神教は、以前、キルケゴール哲学で述べたように、内在的超越性の次元の神を対象にしていると考えられる。そして、それは、無・空である(旧約聖書では、神は無から天地創造するが、無と神は一つであると考える)。
 では、ヤハウェとは何か。それは、多神教、自然神を憎悪するのである。つまり、±1の神、両義性・対極性の神を否定すると言えるだろう。つまり、論理的には、イエス・マリアを否定している神であるということになる(ここで、三位一体論の非合理性が見える)。いわば、一種原点回帰の神であると言えるのである。しかし、そのために、自然を犠牲にしているのである。自然の根源的両義性・対極性(東洋性)を否定して、原点回帰しているのである。これをどう見るのか。私は以前、ヤハウェと近代的自我を結びつけたというか、今でも結びつけているのである。唯一神とは、光・闇の二重神を否定して、視点を、光・闇の対極性から光vs闇の二元論に変換している。結果、唯一神が光であり、異教神が闇となるのである。これは、他者否定として、i*-(-i)⇒−1だと思うのである。i#(-i)は、本来、揺れ動いて、i*(-i)であったり、-{i*(-i)}であったりすると思われるのである。しかし、唯一神は、これを否定して、−1を帰結させていると思うのである。つまり、唯一神は、光を僭称しているが、実は、闇であると思えるのである。ここには、一神教の倒錯があると考えられるのである。確かに、一神教は、原点の虚次元へと回帰したが、実次元の対極性・二重性を否定して、闇へと転換していると考えられるのである。闇が自身を光と考える倒錯・錯誤がここに生じたと言えよう。
 そして、イエス・キリストであるが、以上述べたように本来、イエス・マリア二重神である。つまり、これは、自然宗教の回帰なのである。しかるに、キリスト教は、対極性を否定して、言わば、イエスとマリアを分離して、一神教へとイエスを組み込んだのである。思うに、プロト・イエス教とは、自然宗教(母権宗教・女神教)の回帰であり、同時に、i#(-i)の次元の回帰であると思われるのである。つまり、聖霊の回帰である。天使の回帰である。汎神論の回帰である。しかし、キリスト教は、これを一神教に組み込むべく、三位一体(父と子と聖霊の聖三位一体)という虚構を作ったのである。(さらに、東方教会カトリック教会は、異教的な、聖母マリア信仰、聖アンナ《聖母マリアの母》信仰、叡知《ソフィア》信仰を組み込んだのである。)
 結局、キリスト教とは、回帰した自然宗教・対極二重神と一神教との妥協・折衷であると考えられるのである。今日の言葉で言えば、統合失調症としてのキリスト教なのである。思想的に言えば、対極性と二元論が混淆・混合しているのである。
 ということで、一神教とは、他者を否定した原点回帰と言えよう。思うに、一神教とは、i→(-i)という連続的同一性志向性であり、iの宗教であると言えるだろう。それ以前の自然宗教、対極性宗教が、i#(-i)の宗教であったと言えるだろう。
 ここで、いちおう、終えたいが、問題は、光・闇の対極性とi*(-i)の関係をより明確することである。


p.s. やはり、問題は、i#(-i)とi*(-i)の関係である。あるいは、対極性の問題である。対極性を考えると、i*(-i)も対極性であり、光+1と闇−1の関係も対極性となるのである。思うに、発想を変えないといけないようだ。iを原光、-i を原闇としたらどうだろうか。そうすると、光・闇の対極性は整理されるだろう。つまり、光・闇の対極性とは+1であるということになる。そして、光と闇の二元論は−1になるということである。
 どうやら、この方がいいようだ。すると、+1は精神の光、−1は物質の闇となるのではないだろうか。整理すると、i=心の光、-i=身体の闇、そして、+1=精神の光、−1=物質の闇ということになるだろう。そして、アポロは、iであり、ディオニュソスは-iであり、同様に、天照大神はiであり、素戔嗚尊は-iとなる。そして、iと-i とは、入れ換え可能であろう、心の光が身体の闇となり、身体の闇が心の光となるだろう。即ち、アポロがディオニュソスとなり、ディオニュソスがアポロとなるのである。対極性である。即非である。
 そうならば、一神教は、−1で物質の闇であるということになり、近代合理主義、唯物科学と合致するだろう。

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参考

牛頭天王
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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牛頭天王(ごずてんのう)は、もともとはインド の祇園精舎 の守護神といわれる。単に天王といえば、牛頭天王をさすことが多い。 備後国風土記には武答天皇 の太子として登場し、牛頭天皇と表記される。 日本の神素盞鳴尊 と習合した。

同時に疫病神 の一面を併せ持つ神 。疫病を撒き散らすと同時に親切に迎え入れた農民に対しては万病に効く術を授けたとも言われている。平安時代 に都市 部で信仰されるようになり、祇園御霊会 (祇園祭 )において祀られるようになる。牛頭天王スサノオに対する神仏習合 の信仰を祇園信仰 といい、中世までには日本全国に広まった。

八坂神社 ・津島神社氷川神社 およびその分社で祀られていたが、明治の神仏分離 でこれらはスサノオを祀る神社となった。ただし、天王神社牛頭天王を祭神とする神社は今でも全国各地に点在している。(ヤマトタケル伝説とも関係がある)[要出典 ]天王洲アイル の「天王洲」など、各地にある「天王」のつく地名の多くは牛頭天王に因むものである。

[編集 ] 蘇民将来子孫之門

昔、牛頭天王が老人に身をやつしてお忍びで旅に出た時、とある村に宿を求めた。このとき兄の巨丹将来 は裕福なのに冷淡にあしらい、弟の蘇民将来 は貧しいのにやさしく迎え入れてもてなした。そこで牛頭天王は正体を明かし、「近々この村に死の病が流行るがお前の一族は助ける」とのたまった。果たせるかな死の病が流行ったとき、巨丹の一族は全部死んでしまったのに、蘇民の一族は助かったという。

現在でも八坂神社などでは赤い地の紙に金色の文字で「蘇民将来子孫之門」という札を配布しているが、その由来はこの故事を基にしている。何故赤い紙に金色の文字かというと陰陽道で「疫病神が嫌う色」とされているからである。

[編集 ] 外部リンク

* 伝統ある宗教行事や貴重な伝承を失わせた明治の構造改革

執筆の途中です この「牛頭天王」は、仏教 関連の書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる執筆協力者を求めています。 (ポータル仏教 ) Dharma wheel
執筆の途中です この「牛頭天王」は、神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。
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