零度差異共振シナジーi*(-i)⇒+1の「エネルギー」とは何か:シナジ

零度差異共振シナジーi*(-i)⇒+1の「エネルギー」とは何か:シナジーというエネルギーとは何か


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


これまでの検討から、連続的同一性志向性を否定のエネルギーとして捉えているが、差異共振シナジー自体の「エネルギー」は何だろうか。これまでは、零度で、潜在態デュナミスとして、ポテンシャル・エネルギーと捉え、同時に、動態エネルゲイアともしてきたのである。思うに、差異共振シナジーは肯定のエネルギーである。差異・他者を肯定するエネルギーである。この、言わば、齟齬をどう見るかである。
 確かに言えることは、差異共振シナジー様態は、肯定エネルギーである。零度であり、同時に、肯定エネルギーである。ここにポイントがあるだろう。自然的態度は、連続的同一性自我を形成するから、否定エネルギーである。つまり、意志は否定的エネルギーなのである。一見、能動的であるが、否定・反動的エネルギーなのである。それに対して、差異共振シナジー・エネルギーは、一見、受動的であるが、肯定・能動的エネルギーなのである。スピノザの能動的観念の能動性は、これと共通である。つまり、共振肯定能動エネルギーがあるということである。これをポテンシャル・エネルギーにしていいのか。
 それは間違っているだろう。そうではなくて、これは、明らかに、プラス・エネルギーである。連続的同一性志向性エネルギーがマイナス・エネルギーである。そう、思うに、自然はこの両方のエネルギーを作動させているのだ。±エネルギーである。
 整理すると、iのエネルギー化が連続的同一性エネルギーであり、-iのエネルギー化が差異共振エネルギーを引き起こすのではないのか。心のエネルギー化が否定のエネルギーで、身体のエネルギー化が肯定のエネルギーとなるだろう。
  プロト・モダン、ルネサンスとは、i*(-i)⇒+1の活性化であると考えられる。これは、つまり、+i*+(-i)ということだろう。つまり、心のエネルギーと身体のエネルギーの両方の活性化であると言えるだろう。しかし、心iのエネルギーが強化されると、身体否定的となり、連続的同一性となる。即ち、自我・近代的自我化である。ということで、プロト・モダン/ルネサンスは、心・主体/身体・他者の両方の活性化であるということになる。+・+【i* (-i)】の様態である。しかるに、+・-【i*-(-i)】となったのが、近代主義である。そして、近代への反動として、-・+【(-i)*(-i)】が生まれる。これが、神秘主義ロマン主義である。
 さて、私が問題にしたいのは、近代科学誕生時代における精神様相である。いわゆる、ルネサンスの魔術的思想と融合していた精神様態を考察したいのである。
 さて、私が問題にしたいのは、近代科学誕生時代における精神様相である。いわゆる、ルネサンスの魔術的思想と融合していた精神様態を考察したいのである。
 思うに、+・+⇒+1のルネサンス精神様相であるが、これは、コスモスであり、当然、内在的超越性を志向するのである。現象界は、いわば、オーラ(精神エネルギー:i*(-i))に包まれるのである。オーラは実在するものである。それは、差異共振シナジー・エネルギー=精神エネルギーである。(近代合理主義の否定エネルギーは、物質・暴力エネルギーである。)
 だから、差異共振シナジー様態では、いわば、神秘的雰囲気が喚起されるのである。そう、これが、−・+へと傾斜すると、神秘主義・オカルト主義に転化すると考えられるのである。これは、ルネサンス芸術を見れば、すぐ理解されるだろう。その神話性は、神秘主義・オカルト主義に接していると言えよう。
 問題は魔術的思想の意味である。+・−が近代合理主義ならば、−・+はそれなりの実効性があるはずである。そう、これは、他者中心主義であり、主体喪失なのである。認識ではなくて、感覚感性直観主義である。いわば、右脳主義である。(心・主体iを左脳性、身体・他者-iを右脳性といちおう呼ぶことができよう。差異共振シナジー性は、脳梁性であろう。)これは、確かに、オカルト的で、占いと関係するだろう。神秘的な直観・直感は、ここから生まれるだろう。霊能者の心身様態と考えられるのである。そう、これは、これで、意味があるのである。近代合理主義とオカルト主義は、結果、−1で共通なのである。これは、しかし、基本的には、病的である。とまれ、オカルト主義は、他者・身体の連続的同一性主義と言えよう。
 ということで、近代科学誕生時代の精神様相は、i*(-i)の様態が微妙に揺れ動いていたと言えるだろう。そして、心・主体iが中心になって、近代合理主義が誕生して、身体・他者-iが排除されていったと言えるだろう。また、当然、i*(-i)の中庸の均衡も排除されたと言えるだろう。しかし、力学的には、心・主体iが強化されるのと同様に、身体・他者-iが強化されると言えるだろう。つまり、近代は、近代合理主義と神秘主義・オカルト主義・魔術主義の両方を形成することになるのである。そして、これが例えば、推理小説家のコナン・ドイルに典型的に発現したと言えよう。ロマン主義は、本質は、i*(- i)⇒+1の均衡を取り戻すことにあったが、結局、神秘主義に傾斜している。近代合理主義が興隆するので、そういう傾向になると言えよう。「モダニズム」も本来、均衡の回復であるが、実際は、近代合理主義と神秘主義の両方向に分裂したのである。
 この点から見ると、今日、流行しているファンタジーは、オカルト主義の流れにあると言えよう。これは、近代合理主義と対になっているのである。(トールキンのファンタジーは、幻想且つ微細な写実主義である。)
 ということで、現代は、両者のバランスが取れて、新たな差異共振シナジー様相が発動していると考えられるのである。いわゆる、ポスト・モダンは、両者の混合であったと言えよう。調和ではなかった。


p.s. 近代合理主義も神秘主義も、-1となることで共通なのであるが、-1は闇である。物質の闇であり、また、身体の闇である。ここでは、唯物論神秘主義が重なるのである。中沢新一が自身の思想を霊的唯物論と呼ぶのは正鵠を射ていると言えよう。ここでの霊性とは、身体の神秘主義なのである。
 しかし、思うに、物質が存するように、霊も存するということではないだろうか。(ここでは、霊と精神を区別している。)物質科学があるのだから、霊科学がありえるだろう。シュタイナーの霊的科学は、そのようなものだろう。思うに、シャーマニズムとは、憑霊ということで、ありうるだろう。シュタイナーが区別した悪魔であるが、アーリマンは、心の連続的同一性であり、ルシファーとは、身体の連続的同一性ではないだろうか。そして、シュタイナーが目指したキリストとは、その中間であるが、思うに、それは、差異共振シナジー様相に当たるのではないか。この点は後で検討したい。