知的認識と身体的認識の対話:知/身体共振シナジー認識へ向けて:近

知的認識と身体的認識の対話:知/身体共振シナジー認識へ向けて:近代主義の病理とトランス・モダン


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


自己認識方程式i*(-i)⇒+1を基礎にして、近代的自我・近代合理主義は、主体iの連続的同一性志向性によって、i→(-i)、即ち、i*-(-i) ⇒−1になるとこれまで考えてきた。問題は、i←(i)、即ち、-(i)*(-i)⇒−1がありうるのか、また、ありうるならば、それは何を意味するのかである。もっとも、これまで、それに対して、判断はしてきたのではあるが、先に、これまで否定していた霊が理論的にありうることになったので、再考したいのである。
 直観で言うと、そもそも、-iは、身体主体のもつ認識・意識である。そう、ここで、知的主体と身体的主体を分けて考えたい。近代的自我、近代合理主義は、連続的同一性を外的他者に投影するのであるが、そのとき、-iである身体的主体は否定・排除・隠蔽されているのである。そして、-iは反動的な力動を帯びると考えられるのである。つまり、i→(-i)において、他者・身体的主体-iは、否定されて、反動化されるということは、そもそも他者・身体的主体 -iがある力をもっているからだろう。この力とは何か。
 知的主体iの力を連続的同一性志向性と考えているのである。そして、これまで、思考実験的に、身体的主体-iの力も同様に連続的同一性と考えたことが多いのである。しかし、また、それを、差異の力と考えたことがあるのである。結局、どちらなのか、それとも、それらとは異なる力なのか。また、そもそも、 i←-(i)という志向性が存在するのか、ということも考えられるのである。
 ここでも直観的に思考しよう。実際、知的主体iと身体的主体-iは、それぞれ、力をもって精神(心身)を形成していると考えられる。知的主体は、当然、言語を介して、知的思考をするが、身体的主体は、いわば、情態的に思考するのである。しかし、知的主体を陽、身体的主体を陰とすれば、陰と陽とは不可分である。陰陽不可分一体(一如)である。だから、身体的主体が情態的思考をしても、陽の知的思考から切り離されているわけではない。つまり、陰陽思考において、陰という身体的主体が中心になって思考しているのであり、陽という知的主体は、陰の従になっているということと考えられる。だから、それを返せば、陽という知的主体が思考するときは、陰という身体的主体は従になっているということだと思う。いちおう、そういうこととしておこう。
 この二つの主体思考は、性質がきわめて異なることは言うまでもあるまい。知的合理的思考と身体的情態的思考である。そして、これらは、陰陽思考という点では、結合している。即非的に結合・統一しているだろう。
 では、身体的情態的思考-iは、知的合理的思考iにどのような作用をするのだろうか。例えば、コスモスという直観・直感は、身体的情態的思考に拠るものと考えられる。ということは、身体的主体は、宇宙と共振していると考えられるのである。知的合理的主体は、それを知覚することはできないと言えよう。つまり、身体・コスモス情態的思考があるということになる。
 では、この身体・コスモス的主体-iは、知的合理的主体iにどういう作用をもたらすのか、ということになる。やはり、身体・コスモス自体の連続的同一性を作用するのではないだろうか。知的合理的主体iの連続的同一性志向性があると同様に、やはり、身体・コスモス情態的主体の連続的同一性志向性があるというように思えるのである。そして、これは、最初に考えたことでもあるが。ならば、それは、i←(-i)=-(i)*(-i)⇒−1ということでいいことになる。そして、これは、端的に言えば、神秘主義であると言っていいだろう。
 だから、先に述べたように、プロト・モダンというエポックは、知的合理的主体iの連続的同一性志向性と身体・コスモス的情態的主体-iの連続的同一性志向性が混交・並存するときと、やはり、考えられるだろう。そして、これが、ルネサンスの思想環境と言えるだろう。一方では、知的合理的主体の連続的同一性志向性(近代合理主義)と、他方では、身体・コスモス的情態的主体の連続的同一性志向性(神秘主義)とが、言わば、カオスモス的に混交していたと考えられるのである。このカオスモスの様態から、近代的自我・近代合理主義・唯物科学/技術/産業が突出・顕在化することになり、近代主義を形成していたったと考えられる。
 これまで、何度も述べたように、デカルトのコギト哲学は、このルネサンスの思想環境から出発して、即ち、i*(-i)のカオスモス的様態から出発して、 i*(-i)⇒+1の自己認識を確立したが、同時に、知的合理的主体中心主義、即ち、i中心主義を選択して、身体・コスモス的情態的主体性-iを否定・排除・隠蔽したと考えられるのである。いわゆる、デカルト合理主義である。既述したように、コギト哲学とデカルト合理主義の間には不整合な亀裂があるが、近代主義はこれを無視して、後者のみを選択したと言えるのである。
 また、この亀裂を修復したのが、これも既述済みだが、スピノザであると考えられるのである。つまり、スピノザは、やはり、ルネサンスカオスモスな思想環境にあり、デカルト哲学の分裂を修復すべく、二つの連続的同一性志向性の狭間で哲学して、知的合理性と身体的情態性を、合理的に結合させる能動的観念の方法を発見したと考えられるのである(私見では、これは、大発見、超発見であり、宗教に批判的知性をもたらしたと考えられるのである)。即ち、二つの連続的同一性志向性の相互否定作用から脱却すべく、知的合理的主体に反動性ではなくて、肯定・能動的思考志向を与えて、他者である身体的情態性に知的合理的様態を付与して、両者を結合・統合させる方法を開拓したのである。つまり、知的合理性と身体的情態性を、第三のもの(能動的観念)を構築して、統合する方法を発見したのである。この第三のもの(能動的観念)が、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー様相に当たると考えられるのである。陰陽の二元論的相克を克服すべく、この第三のもの・能動的観念の方法、他者肯定的方法が創造されたのである。つまり、言い換えると、スピノザ哲学、『エチカ』において、ルネサンスカオスモス的思想環境は、統合・統一態を見い出したと考えられるのである。デカルト哲学の完成としてのスピノザ哲学である。
 結局、スピノザ哲学は、近代合理主義の克服であると同時に、神秘主義の超克でもあるのである。近代というエポックは、両者が分裂して、いわゆる、「二つの文化」(理科系と文科系)が生起したのであるが、スピノザ哲学は、これを統合したと言えるのである。
 この能動的観念の方法をさらに解明するなら、それは、人間主体に潜在している差異共振シナジー様相を活用して、共感的合理主義、倫理的合理主義を形成したと言えるだろう。だから、『エチカ』、倫理学なのである。能動的観念の方法は、人間主体の差異共振シナジー様相という精神・心身態を賦活させて、いわば、精神エネルギーを活性化したのである。この精神エネルギー、陰陽エネルギーは、知的合理性と身体的情理性を並存させているので、物質的合理性と倫理的合理性の両方向を志向するのであり、政治・経済・社会・文化等の創造にとって本質的な理論をもたらすと考えられるのであり、また、プラトニック・シナジー理論の先駆であると見ることができよう。そして、現代、ポスト近代主義のエポックとなり、差異共振シナジー様態が顕著に出現しつつある状況で、スピノザ哲学の方法は、指導的役割をもつと考えられるのである。ただし、不連続的差異論の切り開いた不連続性の地平を前提にすべきだと思う。即ち、スピノザ哲学と不連続的差異論の統一としてのプラトニック・シナジー理論プラトニック・シナジー・サイエンスこそ、より普遍的であると考えられるのである。
 さて、先に問題となった、「霊」のことであるが、以上の考察からすると、身体・コスモス的主体の連続的同一性が考えられるのであり、それは、確かに、神秘主義的身体と言えるだろう。この神秘的身体を、「霊」と呼びうるだろう。しかし、これは、他者の身体であり、知的認識主体を従属させるので、たいへん危険である。シュタイナーの人智学であるが、それは、霊主体従としているが、正に、これは、知的認識主体iを従属させているものであり、倒錯・錯誤・反動と言えるだろう。つまり、「霊」的世界観は、近代合理主義と同様に、偏頗な、誤れるものであり、それは、人間を「霊」の従属者にしてしまうのである。精神世界や新興宗教の問題の本質は、ここにあると言えよう。オウム真理教があのように全体主義になったのは、論理的帰結である。そう、近代合理主義とオカルト主義は一致するのである。それは、全体主義、カルト主義になると言えるだろう。
 現代、日本社会の問題はここにあると言えるだろう。自公政権とは、正に、近代合理主義と霊的世界観との合体である。これは、全体主義を生むのである。日本社会は、このカルト主義から脱却しないと、アメリカの従属・隷属国のまま、没落・滅亡するだろう。日本を救うのは、プラトニック・シナジー理論プラトニック・シナジー・サイエンスである。ポスト近代主義の、トランス・モダンの理論、未来・希望の理論がここにあるのである。


toxandoria氏のブログへのTB
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070102