現象、物質、連続的同一性、認識とは何か:連続的同一性と差異的同一

現象、物質、連続的同一性、認識とは何か:連続的同一性と差異的同一性:内超的差異=複素数存在


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


ここで、基本概念について整理したい。
 主体→他者の→は連続的同一性志向性を意味する。そして、それは、主体による他者の同一性化である。そして、これは、自我を形成する(議論を簡明にするために、近代的自我をここに含めておく)。他者Xは、主体Aによって言語等を介して、連続的同一性化される。例えば、他者Xは、「木」となる。言語「木」を介して、主体Aと他者Xは、連続的同一性化しているのである。このとき、主体Aの差異、他者Xの差異は否定されているのである。つまり、本来は、他者Xは差異的同一性であり、主体Aも差異的同一性であるのであるにもかかわらず。ここでは、A= A、X=X、A≠Xが成立しているのである。連続的同一性論理があるのである。これは、自己認識方程式では、-{i*(-i)}⇒−1であろう。
 では、問題は、現象化とは何かと再考しよう。これまで、現象化を、連続的同一性化と同一視してきた。そうすると、主体・心と他者・身体との連続的同一性化が、現象化であり、同時に、自我化である。
 ここで問題は、既述したように、2つの連続的同一性化が生起することである。即ち、主体→他者と主体←他者である。これは、結果は、両者、⇒−1となり、同値である。しかし、意味するものは異なる。前者は、心的連続的同一性であり、後者は身体的連続的同一性である。(以下、連続的同一性を簡略化して、連一性と呼びたい。)
 心的連一性と身体的連一性とは、何だろうか。これは、明らかに、二元論であり、二項対立である。シーソーである。優劣コンプレックスである。しかし、事象に即して、考えたい(即事ないし即事性と言おう)。即事的に言うと、心的連一性は、自我形成であり、身体的連一性は物質的身体の形成であろう。つまり、自我と物質身体との二元論・二項対立が成立するということである。結局、現象化=連続的同一性化とは、自我/物質身体の二元論的形成であるということになるだろう。ここで、自我を知覚・認識としてもいいだろう。自我/物質身体は知覚(認識)/物質身体となり、これは、人間を含めた動物の現象様態を説明するだろう。
 さらに、知覚(認識)を広義の感覚とすれば、即ち、感覚/物質身体とすれば、植物も含めることができるし、さらには、鉱物・無機物も含めることができるだろう。これで、現象化=連続的同一性化が感覚/物質身体の二元論化であることになった。これは、作業仮説・思考実験である。
 とまれ、ここで、アインシュタインの公式E=mc^2を適用すると、このエネルギーEは、連一性のエネルギーであると見ることが可能であろう。思うに、心的連一性エネルギーを+エネルギーとすると、身体的連一性エネルギーは−エネルギーとなるだろう。あるいは、逆でもかまわない。ここで、思考実験だが、+エネルギーを通常のエネルギーとすれば、−エネルギーはダークエネルギーと関係するのではないだろうか。(先の考察からすると、神秘主義的エネルギーとなるだろう。闇のエネルギーである。思うに、近代主義は、光と闇の二元論であり、近代合理主義が光であるものの、他方の影として、神秘主義・オカルト主義・霊的世界観をもつということと、これは関係するように思えるのである。小泉/安倍自公政権は、この光/闇路線であると考えられるのである。)
 とまれ、以上から、本件のテーマが説明することができたことになる。単純に言えば、現象化とは二元論的連一化(連続的同一性化)である。そして、これは、森羅万象に当てはまるということになる。
 ここで、差異的同一性について検討しなくてはならない。なぜなら、現象化とは、本来、差異的同一性化であると述べたからであり、以上の結論と齟齬になっているからである。この矛盾をどう見るのか。
 この問題は自然・宇宙の創造力学に関わる問題である。現象化は確かに、連一化であるが、自然は、単に、現象だけではないと考えなくてはならない。つまり、当然ながら、根源には差異ないし差異共振シナジーがあるのであり、その連一化が現象化であるからである。この点の様相を検討しよう。 
 問題は、差異と連一性との関係である。現象化=連一化で感覚/物質が生起するが、ここで生起した現象個体は、確かに、連一的個体(連一体)であるが、しかし、差異的に見ると、差異を否定・排除・隠蔽した様態であるが、この差異は、潜在していると見なくてはならない。つまり、現象個体=連一体において潜在的差異が存するということである。だから、この潜在的差異を含めた現象個体=連一体が差異的同一性であると考えられるだろう。つまり、視点の問題である。単に現象界のみの視点からは、現象化とは、連一体化に過ぎないが、差異的イデア界(差異共振シナジー即非界・イデア=メディア界)の視点から見ると、現象化とは、差異的同一性化となると言えよう。これを作業仮説・思考実験としておく。
 では、問題は、この潜在的差異の領域の問題である。これは、先に提起しておいたドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の問題と関わると言えよう。あるいは、ジョルダーノ・ブルーノの一性の問題と。そして、さらに言えば、私が推測する限りのシェリングの自然/精神の対極・相補的同一哲学とも関係するのである。
 しかしながら、この問題は既に考察済みである。これは、内在的超越性の問題なのである。あるいは、虚軸・虚次元と実軸・実空間の関係(ガウス平面座標上の回転)の問題なのである。つまり、潜在的差異とは、内在的超越性(内超性)、虚数的存在なのである。これが、現象界・実次元からは、不可視・不可知になるのである。この内在超越次元(内超次元)に関しては、キルケゴールフッサールが把捉していたと考えられるのである。【これは、当然、単に、内在性(ドゥルーズガタリ)ではないし、単に、超越性(超越神性)ではない。】思うに、この点を明確に解明し確立したのは、プラトニック・シナジー理論だけと考えているのである。
 結局、潜在的差異とは内超的差異(複素数存在)であり、これが、思うに、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、ジョルダーノ・ブルーノの一性、シェリングの精神/自然の対極的同一性と重なると推察できるのである。これで、本件の考察を終えたい。