自己認識方程式における連続的同一性と差異について:対極的世界観と

自己認識方程式における連続的同一性と差異について:対極的世界観と二元論的世界観:東洋と西洋


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


これまで、主体iの他者-iに対する志向性を連続的同一性(連一性)とし、また、同様に、他者-iの主体iに対する志向性も連続的同一性と作業仮説して検討してきた。
 また、主体を心、他者を身体と考えてきた。だから、心的連一性と身体的連一性(身的連一性)があり、両者が人間精神において、二元論ないし二項対立を形成すると考えてきた。しかしながら、両項は、本来、不可分である。つまり、即非態i*(-i)にあるから、対極性の様態であるはずである。だから、単に二元論・二項対立と呼ぶのは、問題があるだろう。本来、主体も他者も対等で対を形成していると見るべきなのであるから。
 ここで、問題を整理しよう。人間精神においては、主体iと他者-iとの即非態が本来あり、それが、対極性を構成している。問題は、連続的同一性(連一性)にあると言えよう。換言すると、志向性の問題である。主体が他者を志向するとき、それは、主体中心に志向して、他者を同一化・支配するということになるということである。そして、これが、連続的同一性志向性である。人間においては、このとき、言語が主導的になると言えよう(参照:言語行為)。即ち、人間精神においては、主体の言語連一性志向性が作動するということになる。ここまでは、これまで通りである。
 次に、他者-iの志向性である。これも連続的同一性と考えているのであるが、果たして、それでいいのだろうか、という疑問が湧くのである。しかし、主体 iにおける他者への志向性が連続的同一性化ならば、単純に、他者における主体の志向性も連続的同一性でいいのではないだろうか。私は、何か、これが、連続的同一性ではなくて、差異的同一性ではないかという思いがあるのである。つまり、主体の場合は言語を介するので、言語的同一性が形成されて、連続的同一性になるのであり、他者の場合は、言語ではなくて、身体そのものなので、差異的同一性ではないと思えたりするのである。結局、身体の意味がここでは問題である。
 ここで、思考実験として、身体の志向性を連続的同一性ではなく、差異的同一性としてみよう。つまり、他者は主体に対して、差異を受け入れるように作用するということになるだろう。これは、主体の否定を意味するのか、否かである。ここで、具体的に考えると、他者として、寒気・暑気、まぶしさ・暗さ、打撃・苦痛、等が現象するとしよう。これらは、いわば、強制的に主体に受容させるのである。他者である差異が、主体を同一化すると言えよう。ならば、この差異的同一性とは、これまで考えたように、他者の連続的同一性そのものと言えよう。つまり、他者の差異的同一性は、他者の連続的同一性と等しいということである。これで、これまでの検討を確認したことになる。即ち、主体iと他者-iは、それぞれ、連続的同一性(連一性)をもつということである。
 次の問題は、この連続的同一性・連一性の相互関係である。これを二元論・二項対立と見てきたが、本来、即非態であるから、対極性を形成すると見るほうが正しいのではないかという疑問が湧くのである。その疑問は的確である。認識は、本来、主体と他者の両面の対極性から形成されるものであるが、主体中心となったとき、心的連一性が中心化されて、他者の身体的連一性が否定されると言えるだろう。つまり、主体と他者との即非態において、主体に傾斜したときに、いわゆる、二元論・二項対立が形成されると考えられる。即ち、主体が優位となり、他者が劣位とされるのである。そして、これは、自我、とりわけ、父権的自我の発生であり、終局的には、近代的自我を発生させると考えられる。
 ここで問題を整理しよう。本来、精神においては、主体と他者との即非態による対極性が現象すると言えよう。しかし、なんらかの原因で、主体中心となり、二項対立・自我が形成されるということである。即ち、即非態・対極性から二元論・二項対立に転換するということである。つまり、即非態・対極性とは、主体の連一性と他者の連一性が均衡を保持しているということであり、二元論・二項対立とは、主体の連一性が中心化されて、他者の連一性を否定するということである。
 それでは、問題は、何故、二元論・二項対立を生む主体中心主義が発生するのかということである。この問題は、当然、西洋文明/一神教父権制の問題である。結局、主体中心の連一性が、いわば、特化されて、他者の連一性を否定・排除・隠蔽する事態が生起したということである。結局、これは、アポリア(難問)であり、複雑な説明を要することになる。
 この点に関して、先ず言うべきことは、即非態・対極性という「カオスモス」(即非エネルゲイア=「龍」を使用したい)における認識の問題である。古代父権神話(例:バビロニア神話)では、母権的象徴の怪獣を英雄が退治するパターンが共通する。これは、主体中心主義の先駆であると考えられよう。つまり、即非態・対極性(即非エネルゲイア=「龍」)において、主体中心主義が生起したことを意味する。これは、一つの発生論的意義である。もっとも、問題は複雑で、東洋・アジアの場合、即非態・対極性の世界観(陰陽的世界観)が主導的であり、この西洋的世界観との相違の発生を説明する必要があるのである。(これは、英語と日本語の文法に如実に顕在化していると言えよう。英語のS・Vは、主体・主語Sの能動・述語動詞Vを意味し、日本語の「主客一如」・Vは、即非・対極性を意味しよう。)
 ここでも直観で述べよう。それは、「わたしは全世界・コスモスである」という意識の発生があると思うのである。これはヘーゲルの理性である。これは、即非態がコスモス(原森羅万象)であるから、A=~Aとしての「わたし」の発生であると見ていいだろう。しかし、同時に、A≠~Aである。即ち、「わたし」は他者とは異なる、ということである。そう、主体の連一性と他者の連一性との二元論が発生するのである。この様態は二項対立と対極性の未分化状態であろう。だから、正しくは、対極様態である(参考:D.H.ロレンスの『無意識の幻想曲』)。だから、本来、東洋・アジア的世界観が正しいと言えよう。では、これが、主体中心主義になる力学は何かである。
 直観で言えば、ここには、否定が作用しているのである。(対極様態は、他者を肯定して、主体と他者との極性を保持しているのであるから。だから、現象・物質態とは、本来、対極様態であると言うべきであろう。)対極性においては、主体と他者とのバランスが考慮されるのであるが、ここでは、他者は否定されるのである。言い換えると、他者の連一性が否定されるのである。ただ、主体の連一性のみである。(これは、本来、自然現象には適っていないと言うべきである。自然は対極様態であり、他者を否定したら、自然は存在しなくなるだろう。主体と他者との連一的対極性によって自然は現象化していると言えよう。)
 ここで仮説の一つは、これまで述べてきた、男性の傾斜である。男性は、主体の連一性中心主義に傾斜しているのであり、女性は、対極的であるという仮説である。
 もう一つは、イデア・メディア界における回転力学に拠るものである。i^2=-1によって、主体の連一性中心化が生起したと考えるのである。しかし、これは、同時に、他者の連一性中心化でもあるのである。思うに、これは、宗教の発生を意味すると思うのである。主体的連一性中心化が主体的認識化であり、他者的連一性中心化が他者的認識化であり、後者が神観念となると推測されるからである。
 さて、この2つの仮説をどう見るのかである。これは、ある意味で同一の事態ではないだろうか。主体中心化が生起すると、反動・反作用的に他者中心化が生起すると考えられるからである。そうすると、男性的主体中心主義とイデアガウス平面の回転変化が一致することになるだろう。ということは、イデアガウス平面の回転変化によって、男性的主体中心主義が、人類史のある時点で発生したということになるのである。(このように考えると、占星術的宇宙史がまた想起されるのであるが。以前、私は、イデア界史という言葉を使用した。)ここでは、このように作業仮説しておきたい。
 とまれ、この父権的主体中心主義によって、西洋文明が帰結したと言えるだろう。そして、近代主義が終局態であると考えられるのである。ここで、思考実験だが、iが東洋文明、i^2(=-1)が父権文明、i^3(=-i)がプロト・モダン文明、そして、i^4(=+1)が新東洋文明ということになるのではないだろうか。
結局のところ、極性で考えると、人類は、父権・宗教・西洋文明の-1に傾斜したのであるから、当然、バランスをとる為に、母権・非宗教(仏教)・東洋文明の+1へと傾斜すると思うのである。思うに、−1は人類の病気・戦争なのであり、+1が人類の健康・平和なのである。
 後で、主体中心主義の発生力学について、再検討したい。

p.s. 今、ふと思ったのであるが、私は、和辻哲郎の『風土』は唯物論的な傾斜があり、賛成しないが、しかし、風土論的発想が以上の問題に関係するように思えたのである。日本を初めアジアの風土は、自然の変化が激烈であるのに対して、ヨーロッパはイタリアを除いては安定しているのである。つまり、欧州においては、自然という他者は、人間主体の理性に即しやすいと言えるが、日本・アジアにおいては、自然は、人間主体の手に負えないのである。正に、他者としての自然だと思うのである。東洋的自然観は、対極的になるだろうし、欧州的世界観は、主体中心主義になるだろう。
 また、砂漠の風土は、どうなのだろうか。私はほとんど砂漠を経験したことはないが、アメリカの西南部ニューメキシコ州の砂漠を少し経験した限りでは、火星か木星にでもいる感じであるが、印象では、精神の内面化が起こるのである。「超越」化と言ってもいいかもしれない。アメリカの「地霊」は、超越志向だと思う。(参照:エマーソンの超越主義) だから、砂漠は、確かに、超越神志向があると思うのである。日本の風土では、超越神的発想はほとんど起きないと思うのである。
 ということで、経験論的に、対極論か主体中心主義の区別が説明できそうである。後で整理したい。


エマーソン
http://www.vaitman.com/tr/jp/?q=/philosophy/50583.php
http://en.wikipedia.org/wiki/Ralph_Waldo_Emerson
http://www6.plala.or.jp/jinbe/thesis/chap1.html