情態・感情・情動・情感等とは何か:心と身体との間態エネルゲイア:

情態・感情・情動・情感等とは何か:心と身体との間態エネルゲイア:心身平行論から心身即非・対極論へ


テーマ:プラトニック・シナジー理論


先に、情性とは、身体的様態ではないかと簡単に提示したが、どうも違うようだ。以下、検討したい。
 自己認識方程式i*(-i)⇒+1において、心的主体iと身体的他者-iが、即非様相で交流している。しかし、これは、メディア界においてである。しかし、これが現象化すると、心的主体と身体的他者とが連続的同一性(連一性)を介して、接続するのであり、そのとき、即非様相が喪失されて、両者は否定的様態となるのである。これが、反感であり、ルサンチマンである。
 もう少し丁寧に説明すると、即非エネルゲイアは、肯定的エネルゲイアであり、両者が共振シナジー様相となっているが、それが、連続的同一性化すると、否定的エネルゲイアとなり、反動的エネルゲイアとなるのである。端的に言えば、前者が共感性であり、後者が反感性である。普通、感情と言うときは、後者の、悪い意味で言われることが多いが、前者も感情に入るのである。だから、両者を意味する言葉として、情態という言葉を使うといいだろう。 
 とまれ、ここから、情態とは、先に触れたように、単に身体的なものではないことが判明したと考えられる。情態は、心的主体と身体的他者の間態、交流態としてのエネルゲイアであるとあるのである。言わば、間態エネルゲイア、交流態エネルゲイアである。
 さて、以上のように、情態を規定できたが、この視点は、いわゆる、心身平行論のスピノザ哲学に解明の光を照射できると思われる。即ち、スピノザ哲学の場合、感情問題が重要であるからである。これを能動化して、心身を賦活させる考え方をもっているからである。
 私は以前から、スピノザ哲学の感情の捉え方があいまいであると思ってきた。それは、スピノザにとり、感情は心性の領域に入るのであるが、それは、同時に身体の領域にかかわるのである。心身平行論であるから、両者、相互関係をもつので、当然であるが、この平行関係があいまいであるのである。感情という心的領域と身体との関係が不明確なのは、事実である。しかしながら、以上のように、感情を心と身体との中間態として捉えるならば、心身平行論は克服されると言えよう。つまり、心身即非・対極論がここに誕生するのである。つまり、スピノザの『エチカ』における心的感情とは、実は、心的ではなくて、心身中間態エネルゲイアであるということになるのである。中間的情態である。
 さらに展開すると、いわゆる、心や愛とは、心身共振シナジー情態と心身連続的同一性(連一性)情態との未分化混淆態であると言うべきであろう。心や愛は、利己的な要素をもっているのである。愛や心はイデオロギーである。

p.s. 本稿のメモを書いて、補足としたい。
 
差異共振・即非エネルゲイア(肯定エネルゲイア・共感)から連一エネルゲイア(否定エネルゲイア・反感・ルサンチマン)に変換する。つまり、情態とは、エネルゲイアの様態のことであろう。つまり、情態とは、心と身体との間態である、ということだろう。だから、単に、心、又は、単に身体に属しているものではなく、正に、即非・対極態。
 主・他のエネルゲイア、主・他間態エネルゲイアとして情態があるだろう。主・他間態エネルゲイアとしての情態は、肯定エネルゲイアと否定エネルゲイアがある。共振態と反動態である。
 史的に、ルネサンスは前者であり、近代合理主義は後者である。平和態と戦争態とも言える。しかし、心的主体的連一態の傾斜によって、後者へと展開した。しかし、エネルゲイアの余剰から、前者へと進展する。トランス・モダン。
 尚、ポスト・モダンは、トランス・モダンへの移行における不十分な発動であった。連続態・反動態から切断されなかった。

p.p.s. 以上のように見ると、心的主体性と身体的他者性との中間態としての情態があり、また、それが、精神様態であると言えるだろう。結局、精神様態とは、心/身体の対極性であるということになり、言い換えると、双極性であると言えよう。だから、単に心的主体性中心の合理主義である近代合理主義は、身体的他者の極を否定しているので、極めて、不合理・非合理・没合理的な思想であるということである。極性を否定しているので、極性を反動化させてしまい、暴力・狂気・錯乱を引き起こすと言えよう。
 私が、これまで、近代的自我は狂気であると言ってきたが、それは、ここからも正当化されると言えよう。