霊性と身体:身体的霊性と即非的霊性:イデア的霊性の発見

霊性と身体:身体的霊性即非霊性イデア霊性の発見


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


先に、『月と六ペンス』に関係して、触れたが、身体性と霊性の関係を考察したい。
 今、簡単に述べると、19世紀後半から20世紀初期にかけて、いわゆる、反近代主義の動きが明確に発現する。思うに、18世紀末から19世紀初期のロマン主義がその先鞭であろう。
 この精神力学は、近代主義の心的主体的連続的同一性(連一性)中心主義に対して、身体的他者的連続的同一性(連一性)を肯定するものであるが、思うに、後者の肯定において、なんらかの霊性・精神性が発動すると考えられるのである。この力学を突きとめたいのである。
 これは、単純に言えば、《自然》の発動である。啓蒙思想ロマン主義において、《自然》が中心的役割を果たしたことを想起すれば、いいだろう(通常、啓蒙思想ロマン主義は対立的に見られるが、すなわち、理性主義と感性主義の対立と見られるが、根源は共通すると推察される)。
 プロト・モダン(原近代)とは、元々、差異の発動であるから、i*(-i)の即非エネルゲイアを内包(内在超越)している。そして、心的主体的傾斜によって、近代合理主義が発生したのである。しかし、基盤・基礎・土台には、即非エネルゲイアが、言わば、鬱勃と潜在しているのである。つまり、近代合理主義に否定・排除・隠蔽された即非エネルゲイアが潜在している様相において、身体的他者的指向性が発動するということは、当然、潜在態の即非エネルゲイアの発動を意味すると考えられる。
 つまり、《自然》の発動とは、元々、潜在態である即非エネルゲイアの発動であり、それは、当然、身体的他者的指向性(連一性)をもつと考えられるのである。そう、この身体的他者とは、-iであるから、物質的身体ではないのは、明白である。物質的身体とは、心的主体的連一性によって把捉された身体的他者であり、数式化すれば、i*-(-i)⇒−1である。つまり、−1である。
 しかし、《自然》の発動としての身体的他者的志向性とは、-iの肯定であるから、即非性をもつので、霊性をもつと考えられるのである。つまり、霊性とは、この場合、内在的超越性、超越論性である。虚次元の事象である。これは、高次元と言ってもいいだろう。つまり、《自然》の発動は、即非事象、虚次元・高次元事象なのであり、そのために、身体的他者的指向性は、霊性をもつと考えられるのである。
 そのように考えれば、『月と六ペンス』における、ストリックランドの身体的霊性というものが理解されるだろう。また、D. H. ロレンスの「性」の宗教性も理解されるだろう。そう、精神・霊的身体性、あるいは、身体的精神・霊性が発現していると言えるだろう。そして、これが、ギリシア神話に出てくるサテュロスやファウヌスやディオニュソスであると言えるだろう。(ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を猥褻と判断している日本の司法は、これが理解できないのだ。近代主義的道徳なのだ。)
 とまれ、このような霊性が20世紀初期に大規模で発動した(たとえば、ヘンリー・ミラー)と考えられるのである。しかし、これは、連続性に囚われていたので、反動化したと考えられる。(そう、60年代のロック・ポップス的運動も同様であろう。ビートルズ音楽は、この身体的霊性をもっていたと言えるだろう。)70年代から精神的に反動化しているのだ。
 いったい、このことは何を意味しているのか。プラトニック・シナジー理論は、即非態を説き、また、+1の自己認識を説く。かつては、身体的霊性が発動したが、プラトニック・シナジー理論は、即非態を直接説く理論であり、それは、内在超越的霊性、超越論的霊性を説くように思えるのである。つまり、新しい霊性・精神性をプラトニック・シナジー理論が説いていると考えられるのである。即非霊性・精神性とも言えるだろう。つまり、簡単に言えば、まさに、イデアである。イデアの現代的発見を意味していると思うのである。つまり、善のイデアでもある。心と身体の即非霊性であるイデア倫理を説いていると思われるのである。これは、心にも、身体にも傾斜しない、まさに、心身一体の倫理である。
 後で、整理したい。
 
p.s. 愛というよりは、霊性の方が差異共振シナジー性に近いものではないだろうか。

p.p.s. 本稿を補足すると、身体的霊性は、いわば、神秘主義、身体的神秘性であろう。そして、これは、-(i)*(-i)⇒−1となる。これが、反動というものである。近代合理主義・近代的自我の−1と、身体的霊性神秘主義の−1が、生起して、アイロニカルな没入を形成すると言えよう。ポスト・モダンもほぼこの図式に収まるものである。例外は後期デリダであると考えられる。
 別稿で、神秘主義について、さらに考察したい。