地と天の極性:虚次元のエネルゲイアと実次元のエネルギー:四大(四

地と天の極性:虚次元のエネルゲイアと実次元のエネルギー:四大(四元)と五大(五元)


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


D. H. ロレンスの"Underneath"という詩(哲学詩ないし思想詩とでも言うべきものだろう)の中で、地の核(the hot wild core of the earth, pivotal core of the earth, the soul's middle)の一つの中心性が説かれ、また、反対の天の一つの中心性(the sun of suns, middle-most sun )が説かれている。
 ここで説かれている「力」は、即非エネルゲイア、あるいは、単に、エネルゲイアと呼ぶことができるだろう。つまり、地のエネルゲイアと天のエネルゲイア、あるいは、マイナスのエネルゲイアとプラスのエネルゲイアになるだろう。
 天をiに、地を-iとすると、天のエネルゲイア=+エネルゲイアは、i*-(-i)であり、地のエネルゲイア=−エネルゲイアは、-(i)*(-i)ではないのか。天と地のエネルゲイアのバランスが、i*(-i)である。(易経では、天が3で、地も3となり、陰陽極性の2を六乗することになる。即ち、2^6=64通りの順列となる。)
 ここで思考実験すると、地のエネルゲイアが原重力で、天のエネルゲイアが原光ではないのか。相対性理論では、光は重力で曲がるのである。つまり、この仮想では、原重力と原光が釣りあっているのである。有り体に言えば、重力即非光である。ここで、E=mc^2を考えると、これが、この天地エネルゲイアの現象公式なのではないのか。とまれ、簡単に整理すると、+エネルゲイアが光エネルギーであり、−エネルゲイアが重力エネルギーということであり、両者が均衡しているということになる。もっとも、これは、極性だから、偏差があるだろう。
 以上の考えをこれまでの考え方と比べてみよう。これまでは、i→(-i)を光、i←(-i)を闇としてきた。しかし、両者は、−1になるのである。−1は結果であり、過程としては、光のエネルゲイアと闇のエネルゲイアがある。これは、以上の考え方では、天のエネルゲイアと地のエネルゲイアとなる。
 さらに思考実験すると、西洋文明、とりわけ、近代西欧文明は、天・光のエネルゲイア中心主義であり、地・闇のエネルゲイアを否定・排除・隠蔽してきたと言えるだろう。前者が近代合理主義を生んだのである。そう、よく指摘されるように、近代科学とキリスト教的世界観は結びついているのである。思うに、問題は、本来、虚次元空間のエネルゲイアが、実次元空間のエネルギーと計量されることであろう。つまり、エネルギーとは、本来、虚次元空間のエネルゲイアだと思われるのである。重力や光は、本来、虚次元空間のエネルゲイアであると思われるのである。
 では、天・光のエネルゲイアが、いわば、ライト・エネルギーとすると、地・闇のエネルゲイアが、ダーク・エネルギーということになるのではないだろうか。(これは、思考実験なので、このまま、続けたい。)しかし、現在、宇宙物理学で、ダーク・エネルギーの探究が続けられているが、しかし、ダーク・エネルギーを計量しても、実次元空間で留まるならば、それは、本体の虚次元空間の、言わば、ダーク・エネルゲイアを把捉したことにはならないだろう。この問題はここで留めたい。
 私は、四大(地水火風)のイデア構成を考えているのである。あるいは、物理学の4つの力である。光(電磁気力)を+エネルゲイア、重力を−エネルゲイアとすれば、強い力は+1、弱い力は−1ではないのか。そして、火は光であり、地は重力であり、水は強い力、風は弱い力ではないのか。
 ならば、原点(0,0)は何か。それは、東洋の五大(地水火風空)の空であろう。思うに、ロレンスが上述の詩で言っている、太陽の中心と地の中心は一致して、それが原点ではないのか。光と闇の即非的中心としての原点ではないのか。換言すると、太極である。あるいは、原即非、原対極である。伝統的なイメージでは、卵、種子、壺・瓶・容器(参照:プラトンのコーラ)で示されたと思う。キリスト教の聖杯もこれではないかと思うし、指輪もこれではないと思われる。
 処女生殖・単性生殖があるが、これは、この原点からの産出を意味するのではないだろうか。聖母マリア処女懐胎も同じである。言い換えると、初めから、種子・精子を宿した子宮・卵子であるということである。両性具有である。
 この点からイエスを見ると、それは、差異共振シナジーの結果の+1のことのように思えるのである。つまり、イエス仏陀は同じであることになるのである。(因みに、イエスの説く愛とは、差異共振シナジーの共振態と見るべきである。そう、イエス教とキリスト教は全く異なると言えよう。イエスの教えは、本来、差異共振シナジーの教えであり、イデア界=叡知界の教えである。しかし、一神教は、+エネルゲイアの教えである。プラトニック・シナジー理論キリスト教がありうるのである。)
 ここで、思うのは、ケルト民族のキリスト教の受容である。聖パトリックがアイルランドキリスト教を根付かせた人物であるが、アイルランドキリスト教は、よく知られたように、ヨーロッパ大陸キリスト教とは異なり、異教である土着のケルト文化を排除しないで、それに、言わば、接木するように導入されたのである。言い換えると、異教とキリスト教が結合・融合したのである。この点を、上述の視点から見るならば、ケルト文化の自然宗教多神教は、その帰結としての光の教えを受け入れたということではないのか。この場合の光とは、+1である。つまり、自然宗教多神教とは、本来、差異共振シナジー文化であり、いわば、カオスモス様態にある。極性生成様態にある。しかし、そこから、+1という叡知を生み出すことが求められていたと思われるのである。あるいは、自然宗教多神教智慧として、+1の叡知が示唆されていたと思うのである。そして、これが、イエスの教えとして、ケルト文化に受容されたということではないのか。つまり、自然宗教多神教の叡知化としてのケルトキリスト教ではなかったかと思われるのである。
 この考えを、日本に適用すれば、神道と仏教の関係が明快になると思われるのである。神道ケルト文化、仏教をキリスト教と見れば、ちょうど対応して、日本では、神仏習合を生んだとなると思うのである。つまり、神道の結実としての仏教なのである。
 ということで、宗教に関して言うと、これまで、何度も指摘したように、ポスト一神教、差異共振シナジー叡知教というものが考えられるのである。万教帰一である。


参考:

ケルトキリスト教
http://www.globe.co.jp/information/history/history-1.html
http://island.site.ne.jp/fairy/culture/faith.html
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761563428/content.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E7%B3%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99

神仏習合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0910.html
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page007.html