「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」という発見・創

「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」という発見・創造の糸口


テーマ:プラトニック・シナジー理論入門&講座


TOXANDORIA氏/海舌氏の考察は、発見・創造論につながると言えよう。私の考えでは、これらは、特異性である。キルケゴールの発見した特異性=単独性である。これは、一見なんでもない、平凡に見えるのであるが、しかし、潜在しているエネルゲイアがあるのである。これらを見抜くのが本来の心眼である。私の思考は、結局、悩める高校生の頃から、このことを震源に試行錯誤してきたのだと言えよう。不連続的差異論もここが原点であるし、また、プラトニック・シナジー理論も、この展開である。特異性=単独性が直観された核なのである。


p.s. そう、以前、『ハムレット』論を書いたが、没になったのであるが、そのときの主旨を整理すれば、結局、主人公ハムレットに特異性・単独性を見て、その他、エルシノア宮廷の人間は、連続的同一性に生きる人間であるということである。そう、ハムレットディオニュソス的人間を見て、他の人間を皮相なアポロ的人間と見たとも言えよう。ハムレットカオスモスは、正に、差異共振シナジーの混沌としたエネルゲイアから発動していると言えよう。それこそ、正に、ルネサンスのもっていたカオスモスエネルゲイアである。
 ついでに言えば、シェイクスピアの作品、とりわけ、悲劇作品は、作者の無意識のカオスモスの発現と見ることができるだろう。おそらく、シェイクスピア自身、明確に認識していなかったと思う。シェイクスピア自身、近代主義ルネサンスの未分化的混沌にあったと思われるのである。
 とまれ、シェイクスピアの悲劇作品は、ルネサンス近代主義へと傾斜する事態を描いたと言えるだろう。

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2007.01.15 Monday
「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」

乾(KEN)オフィスのホームページ 伝・金首露王陵(韓国慶尚南道金海市http://www.ken-office.net/page-ken/hankodai/d_Folder/kaya.html


⇒海舌は次のtoxandria氏のコメントに知的興味を猛烈に触発された。

toxandria
2007-01-14 残忍なグリム民話の罠に嵌った安倍の「美しい国

(抜粋)
恐らく、この解決のヒントは“ソクラテスの産婆術”(maieutike)の中にあると思います。現代の日本社会の悲劇・悲惨は、個別的なものを相互に比較することにより、「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」を区別して理解する知恵を身につけるチャンスを失ってしまったことだと思います。フンプンとカルト臭が漂う小泉前首相、安倍首相らの悪徳政治家たちは、この意味で“日本の劣化した現代教育”が産んだ怪異なモンスターです。ただ、彼らは世襲政治家という家産に恵まれていたためカルトのボスにならずに済んだだけです。

今、エコノミストの世界で“ゴルディロックス相場”、“ゴルディロックス成長”などの言葉(“ほどほどの相場”、“適度な経済成長”の意味)が流行っていますが、これは“表層的な意味”の誤用ではないか(あるいは残忍なグリム兄弟が仕掛けた罠に嵌ったのではないか?→Goldilocks is still asleep in the baby's bed when the bears return home. They wake her up, and depending on the brutality of the story-teller, either kill her or scare her away. The moral of the story can differ as well, a general theme is that the privacy of others should be respected.)と思われます。ゴルディロックス(Goldilocks)は小さな金髪の少女の名前で、彼女が主人公となるグリム民話が出所のようです(ストーリーは下記をご参照ください)。

このグリム民話の含意は、“プライバシー侵害への警告”であるとともに“異分子の共存こそがプライバシーと社会の単位”であるということだと思います(ただし、ここに基本的な生存条件の格差を煽る意図はないと思われます)。“ほどほどの相場”と“適度な経済成長”に異論はありませんが、ひたすら“異論と異分子を排除する方向へ大きく傾くばかりの現代日本の政治・経済”が、自らの本質的欠陥に蓋をしたまま“ゴルディロックス成長”を日本国民へ諭す態度は自己矛盾であり、大きな欺瞞であるように見えます。

このような観点からすると、安倍首相が自らの「新年・欧州4カ国挨拶回りの成果」を自負し、大袈裟に強調する映像から臭い立つのはバランスを欠いた奇異な印象ばかりです。日本の政治権力者やパワーエリートたちがこのような体たらくでは、いくら小手先で「教育基本法」をいじくりまわしても、“本物の教育改革”は道遠しだと思っております。




(本文)

◆「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」を区別して理解する知恵」というコメントは、含蓄のある言葉だ。
◆この意味を海舌は、次のように読み取る。
◆つまり、この「区別」とは、『「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」』と『「通常なもの」「枝葉末節なもの」「不用なもの」』を『区別』するという意味だ。最近の脳の働きを科学する分野で、「切り捨てる」ことが重要な脳の発達のメカニズムであるという説が唱えられているようだが、これも、同じ趣旨であろう。
◆海舌が注目するのは、この『「偶然的なもの」、「本質的なもの」、「大切なもの」』の同質性、同じ志向である。
◆つまり、人間の深い部分の理解では、『「偶然的なもの」=「本質的なもの」=「大切なもの」』ではないか、と直感したのである。
◆これは、折口信夫氏が、どこかで書かれていた「まれびと」と同じ発想である。折口信夫氏は、この「まれひと」を異国から「稀」に訪問する人と言う『意味』が起源と提示され、これが「麻呂」という高貴な人という意味に転化する可能性を述べられていたと思う。つまり、「偶然的なもの」=「大切なもの」の連関である。
◆これは、プラトニック・シナジーの理論、不連続的差異論の考えとも共通する認識で、現象の本質的部分は、事物の裂け目、鈴木大拙氏の言う「即非」の部分、「Aと非Aの共振部分=シナジー部分」に存在するという認識にも共通する重要な視点です。「偶然、カオス、混沌、不連続、無規則性、無方向性、予測不能」という概念は、人間の認識の深くで、「恐れ、高貴、神、自然、宇宙、憧れ、美、崇高」と同じ方向性を指し示しています。本質とは、まさに、「恐れ、高貴、神、自然、宇宙、憧れ、美、崇高」の存在する空間の住人です。
◆まさに、初期の「リベラルアーツ的な知的体験」の試みは、この『「偶然的なもの」=「本質的なもの」=「大切なもの」』に、直截に焦点を当てようとする野望からでていると思えます。何故、使用もしないギリシャ語やラテン語を学ぶのか、日々の生活と懸離れた天文学幾何学を学ぶのか、何故、四書五行の素読を意味を知らずにやらされるのか、ここにも、非日常的なもの、稀なもの、混沌、不連続なもの、偶発的なものこそが、本質的であり、宇宙的であり、自然の本来の状態であり、高貴であり、重要なもの、という思想が根底にあるように思えます。実利からはなれること、ホリエモン本間正明氏のような世俗主義から離れることが、まず教養を積む前提だったのです。
◆さしずめ、塾のマニュアル教育、ドラゴン桜、飼育のような義務教育などは、次のWikipediaの定義からは、奴隷のための教育になるのでしょう。東大に合格することが目的化し、マニュアルによって誰もが東大に行けるという発想は、本来の教養という言葉から、最も遠いものです。そこにもってきて、東大に入れば就職が有利、ということまで要因として存在するのであれば、『塾のマニュアル教育、ドラゴン桜、飼育のような義務教育』は、奴隷製造装置と考えることも許されるでしょう。但し、この理解によって短絡的に、柳宗悦氏が言う「手仕事の日本」の意味を軽薄に理解してはならない。柳宗悦氏が言う「手仕事の日本 」とは、この『「偶然的なもの」=「本質的なもの」=「大切なもの」』の意義を十分すぎるほど理解した上で、その哲学的用語を使えば『身体』として、手仕事の「知性」を発見しているのである。非日常性を際立たせるための「道具」として用いられる「教養教育」は、その非日常性が通俗化し、枝葉末節に陥り、本質を見失い、堕落する傾向を持つことを踏まえて、『手仕事』による「日常性の中の非日常性」を発見するのである。


私の手が語る―思想・技術・生き方 (単行本)
本田 宗一郎 (著)


も同じであり、本田宗一郎氏自身の手に残る傷の痕に、
偶然性、非日常性、恐れ、高貴、神、自然、宇宙、憧れ、美、崇高を見るのである。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=503929
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』


TOXANDORIA氏のブログへのTB
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070114/p1