検討問題:ファシズムの哲学:トランス・モダン・ジャパンと禅ルネサ

検討問題:ファシズムの哲学:トランス・モダン・ジャパンと禅ルネサンス


テーマ:政治・経済


最近の日本を見ていると、戦前のことが気になってくるので、駅前の本屋で、その時期の、新書等の本を探した。結局、満州国の問題がキーポイントであると感じた。『王道楽土の戦争 戦前・戦中篇 吉田 司 (著)』 http://www.amazon.co.jp/%E7%8E%8B%E9%81%93%E6%A5%BD%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89-%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%88%A6%E4%B8%AD%E7%AF%87-%E5%90%89%E7%94%B0-%E5%8F%B8/dp/4140910453/sr=8-2/qid=1168874747/ref=sr_1_2/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books

を少し立ち読みして、岸信介が、その黒幕であり、また、戦後日本の「社会主義」体制を創った人物であると書いてあったからである。
 そこで、ファシズム全体主義の理論化を再考する必要を感じたのである。これまでは、弁証法にその哲学的基盤を見てきたのであるが、それでは、単純なので、もう少し詳論する必要があると感じたのである。
 また、社会主義全体主義とどう違うのかも大事である。これは、ある意味で、ヘーゲルマルクスの違いのようなものかもしれない。そう、直観では、やはり、ヘーゲル哲学が、ファシズム全体主義に通ずる。
 ここでは問題提起するだけなので、直観のまま書こう。
 心的主体性と身体的他者性の二元論で考えよう。前者の連続的同一性(連一性)が西洋近代主義であり、その反動として、後者の連続的同一性が起こったと思う。おそらく、これが、ファシズム全体主義の起因である。アンチ西洋近代主義があると思う。つまり、身体的他者の心的主体性への反動である。これは、霊的、宗教的、精神的になりうるのである。そして、石原莞爾の世界最終戦争論は、正に、日蓮宗に裏打ちされたそのようなイデオロギーと言えよう。(思うに、ネオコンも、これに近いところがあるのではないだろうか。)
 問題は、心的主体性と身体的他者性の連続性である。これが、大澤真幸氏の説くアイロニカルな没入を引き起こすのであるが、この未分化連続性が、両者を相互転換させると言えよう。
 とまれ、もう一つの問題はナショナリズムである。これは、基本的には、身体的他者的連一性から発すると言えよう(p.s.  これは、どうだろうか。心的主体的連一性からも、ナショナリズムは発生しないのか。思うに、国家主義は、確かに、心的主体的連一性から発するだろうが、ナショナリズムは、泥臭いのであって、やはり、身体的他者的連一性から発すると見るべきだろう。思うに、ヘーゲル国家主義は、両者が一致したものと言えるように思えるのである。後で再考。)。国家へと吸収されて行くのである。民主主義を標榜しても、身体的他者的連一性があるので、連続的同一性である国家に同化されるのではないだろうか。
 ここで、社会主義を考えると、それは、一見、心的主体的連一性に見える。しかし、それは、表面だけである。ここが、ヘーゲルマルクスの関係の問題である。社会主義は、思うに、ヘーゲル哲学のアイロニカルな没入ではないのか。つまり、観念論と唯物論のアイロニカルな没入があるのではないか。
 ここで、少し発想を変えると、心的主体的連一性と身体的他者的連一性は、究極的には、一致するのではないか。二元論であるが、極限状況的には一致すると思えるのである。(近代的自我の狂気は正に、この両者の一致ではないのか。)つまり、観念論即唯物論である。
 この視点からすると、社会主義ファシズム全体主義は一致すると言えよう。ここには、結局、差異・他者が存していないのである。つまり、すべては、連続的同一性である。
 ならば、戦前の日本、戦前の昭和期は、連続的同一性が支配した時代と言えるだろう。そして、また、戦後、民主主義憲法をもったが、岸信介でわかるように、連続的同一性主義の支配は継続したと言えるのではないか。そして、さらに、小泉/半安倍路線は、これの継承ではないのか。小泉政権は、これの突出したものではなかったか。
 現代日本の超迷妄は、この点にあるのではないのか。近代/現代日本は、差異・他者を忘失してきたのではないのか。前近代の日本には、差異・他者はあったのであるが、近代日本となり、それが否定・排除・隠蔽されたのではないか。
 私は排仏毀釈が日本人の精神に破壊的作用をもたらしたと考えているが、それと、この差異・他者の喪失は関係するだろうか。鈴木大拙が明らかにしたように、日本伝統文化は、禅が浸透しているのである。では、禅とは何かとなるが、それは、簡単に言えば、自我の解体としての空の悟達である(道元:身心脱落)。あるいは、世俗の次元を超えた空の次元の体得である(井筒俊彦)。結局、鈴木大拙即非認識に帰着すると言えよう。つまり、禅は、日本人の精神にとって、差異・他者を形成していたと言えよう。これで、排仏毀釈の破壊的作用の意味がわかる。それは、日本人の精神における差異・他者を否定したのであり、日本人を連続的同一性の自我へと転換したのである。つまり、正に、近代化なのである。漱石文学は正に、これを問題にしている(『こころ』や「私の個人主義」、他)。
 そう、明治維新とは、日本の文化大革命であったのだ。日本の差異・他者的精神を形成した禅・仏教が否定されたのである。これは、当然、西欧近代主義と等しいのであるし、さらに、西欧の個人主義がないために、ハイパー近代主義になったと言えよう。そして、これが、現代今日の昏迷の安倍政権にも継続していると言えよう。
 私が戦前のことが気になったのは、正しかったのである。近代日本の、いわば、トラウマのハイパー近代主義=ハイパー連続的同一性主義が回帰していると考えられるのである。そう、これは、実は、小泉政権が蒔いた種と言えよう。
 トランス・近代日本が必要である。前近代日本へと回帰する必要があると言えよう。近代主義の連続的同一性主義の構造から脱却しないといけないのである。
 トランス・モダン・ジャパンである。脱国家主義である。そう、禅を、日本人は取り戻さないといけない。禅ルネサンスである。