心的主体性/身体的他者性の二元性とトランス・モダン:近代合理主義

心的主体性/身体的他者性の二元性とトランス・モダン:近代合理主義の罠と虚次元的差異即非の肯定


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


心的主体性の連続的同一性志向性と身体的他者性の連続的同一性志向性の二元論が、人間の「精神」には存している。簡明にするため、前者を心的同一性、後者を身体的同一性と呼びたい。
 そして、これまで述べてきたように、人間は前者に傾斜している。つまり、心的同一性が、身体的同一性に対して、優位にあるということである。西洋文明は、前者中心主義であり、後者を否定してきた。しかし、19世紀後半(本当は、ルネサンス)から、後者が復権し出したのである。西洋の理性に対する、身体の復権である。しかしながら、これは、身体的同一性であり、-(i)*(-i)⇒−1となり、いわば、「アイロニカルな没入」となるのである。近代合理主義と身体性が一致してしまうのである。
 確かに、心的同一性という「理性」の支配に対しては、身体的同一性は、他者となる。しかし、身体的同一性が心的同一性を否定し、支配すると、それは、 −1となり、他者・差異が消失するのである。思うに、20世紀はそのような進展をしたと思うのである。他者・差異を身体に求めたが、結局、同一性に帰結してしまったのである。
 この理由は、プラトニック・シナジー理論から明白である。差異共振シナジー即非事象を排除していることが原因である。そう、連続論に立つ限りに即非性の超越論性は捉えられないと言えよう。あるいは、イデア論に立たない限り、捉えられないと言えよう。唯物論では不可能である。言い換えると、虚次元を考えない限り、不可能である。
 私が言いたいことは、20世紀文化の試みは、確かに、心的同一性(デリダのロゴス中心主義)という西洋文明の核を、身体・他者性の肯定によって、批判し、解体することにあった(ポスト・モダン)。しかし、それは、身体・他者自体が、また、同一性を志向することを看過していたのであり、心的主体性の否定と身体・他者の肯定が身体・他者的同一性に帰結して、結果は、唯物論、物質主義であったと言えよう。モノの支配である。唯物資本主義である。
 ここで精緻に整理しよう。
心的主体性は、近代合理主義になったが、身体的他者性は、何になったのかである。先にサマセット・モームの『月と六ペンス』で提示したが、そこでは、身体的霊性があったのである。これは、身体的他者が霊性、即ち、超越論性・即非性を帯びていたと理解できるのである。つまり、否定されていた身体的他者とは、即非・差異共振シナジー様相を内包・包摂していたということである。つまり、その時は、-iとi*(-i)の両面がエネルゲイア化していたということになると考えられるのである。そして、この様態が優れた20世紀初期・前半の芸術を生んだのである。
 しかし、近代合理主義は、身体的他者を物質に還元したのである。つまり、身体的他者が帯びていた霊性を否定したのである。
 さらに精緻に考察しよう。有り体に言えば、プロト・モダン=ルネサンスとは、新たな即非事象の発現・発動である。つまり、新たな霊性の発現なのである。それが、意識においては、カオスモスとなるのであり、デカルトがコギト主義によってある公式性を与えたと言えるものである。換言すると、プロト・モダン=ルネサンスとは、差異共振シナジーエネルゲイアの発動なのである。しかし、心的主体性にとりわけ傾斜している西洋・西欧は、近代合理主義を生み出した。近代科学である。それは、心的同一性主義である。しかし、差異共振シナジーエネルゲイアが発動しているので、それへの異議申し立てが発生する。即ち、身体的他者性の反作用である。これが、身体的霊性というものである。つまり、ここには、単に身体的同一性だけでなく、心身共振シナジーエネルゲイアがあるわけである。
 しかしながら、近代合理主義によって、身体的他者性が物質に限定される事態が発生しているのである。つまり、唯物論である。問題は、身体的同一性と唯物論の関係である。一見、両者は一致するようである。ここは微妙である。身体的同一性とは単純に言えば、欲望である。本能である。食欲や性欲等の快・不快の欲望である。肉体の欲望である。だから、唯物論は、この欲望に物質的基盤を与えたことになるだろう。
 つまり、事態は次のようであったと考えられよう。身体的他者の肯定は、初期は、身体的霊性を帯びていた。つまり、即非・差異共振シナジー性を帯びていた。精神性をもった身体であったということである。しかし、その後、近代合理主義によって、唯物論が進展する。それは、身体性から精神性・霊性を否定・排除するようになる。即ち、19世紀後半から20世紀前半において、発動した身体的霊性は、近代合理主義/唯物論の進展にともない、霊性・精神性が排除されて、霊的身体は、単なる身体的同一性となったと言えるのではないか。つまり、欲望・本能の身体となったのである。言い換えると、プロト・モダン=ルネサンス即非・差異共振シナジーエネルゲイアが、このとき、まったく否定・排除・隠蔽される事態となったのである。近代合理主義・唯物論・近代的自我の完成である。(そして、これが、私が近代的自我が狂気であると呼ぶことの理由である。)「近代」の原点であった差異共振シナジー即非性が消失したのである。これは、端的に、悪魔的世界である。善が消えた世界である。末世・末法(カリ・ユガ)なのである。(そして、この典型が現代日本である。亡国日本である。)
 このように倒錯・転倒してしまった原因は、ひとえに、近代合理主義である。これが、唯物論を生んだのであり、そのため、差異共振シナジー即非霊性が否定・排除・隠蔽されたのである。身体的他者について言えば、それは、欲望・物質的身体になったのである。
 では、問題は、否定・無化された即非エネルゲイアはどうなるのかである。近代合理主義の支配においては、それは、反動態となり、暴力・狂気になるのではないだろうか。比喩的に言えば、神が悪魔になっているのである。現在の悪は、神の成れの果ての姿である。イラク戦争は、神が悪魔に転化した結果である。
 とまれ、それ以外の場合を考えると、本来、即非エネルゲイア潜在的に、潜勢態的に、生動しているのである。それが、本来の創造力でもある。そして、平和のエネルゲイアでもある。差異共存のエネルゲイアである。そう、国際的共同体のエネルギーはここに存すると言えよう。宗教・叡知の本来の基盤はここにあるのである。これは、人間の潜在意識になっているのである。しかし、近代主義の束縛があるので、それが、超次元・虚次元にあるのを、人は認識するのが実に困難なのである。ここで、オカルティズムや神秘主義新興宗教に染まる原因があると言えよう。「霊」・「神秘」・「神」は、虚的実在として捉えるならば正しいのであるが、それらを、実次元から絶対的に超越したものと見る限り、まったく錯誤である。
 結局、イデア界を肯定することである。それも、虚次元・虚数ないしガウス平面・複素数としてのイデア界である。このように「霊」・「神秘」・「神」を合理化することで、非合理主義に陥ることから免れると言えよう。超越論的イデアを肯定すること、超越論的イデア的差異を肯定すること、ここに、トランス・モダンが誕生するのである。
 


参考:思考実験


思うに、左脳/右脳の問題、あるいは利き手の問題も心的主体性と身体的他者性の二元性と関係しようし、ジェンダーの問題もそうだろう。左右の問題である。直感・直観では、自然自体も傾斜があるのではないのか。自然において、右と左ではたいへんな違いがある。蔓植物の巻く方向。自然は左回転して、天iが左になり、地-iが右になるのではないのか。このときは、左はマイナスであり、右はプラスである。植物において、根が下降するのは、地の力であり、芽や茎が上昇するのは、天の力によるだろう。おそらく、それらは、螺旋である。根も茎も螺旋であろう。つまり、上方に捩れる場合と下方に捩れる場合があるということではないだろうか。つまり、螺旋は、上方と下方の両方向同時に発生するということではないのか。思うに、これが宇宙生成の原型ではないのか。上方に捩れる宇宙と下方に捩れる宇宙があるのではないのか。前者が光のエネルギーの宇宙であり、後者が闇のエネルギーの宇宙ではないのか。簡単に言えば、光の螺旋宇宙と闇の螺旋宇宙である。
 そして、前者が現象する宇宙であり、現象界である。そして、後者が不可視の宇宙である。しかし、両者の基盤となる虚軸の宇宙があるだろう。それは、即非元宇宙ではないだろうか。この即非元宇宙から、光の螺旋宇宙と闇の螺旋宇宙が生成されるということではないのか。ダークマターダークエネルギーは後者を観測しているのではないか。しかし、即非元宇宙は視点に入っていないのではないのか。それは、虚次元空間の宇宙である。
 この問題は、これまで言及しているように、「エネルゲイア」の問題である。強度の問題である。あるいは、「力」の問題である。ここで、直観で言えば、根源に差異共振シナジーエネルゲイアがある。このエネルゲイアの連続的同一性化が物質エネルギーである。つまり、エネルゲイア⇒物質エネルギーである。エネルゲイアがエネルギーを包摂しているのである。ならば、エネルゲイアとは何かとなるだろう。それは、当然、連続的同一性志向性であろうし、その結果が発生するのがエネルギーであろう。差異と差異がもつポテンシャル・エネルギーがあるとしよう。それはデュナミスである。差異1のデュナミスと差異2のデュナミスが、連続的同一性志向性により、結合すると、エネルギーを発生するとしよう。志向性がエネルゲイアであり、デュナミスの転化がエネルギーではないだろうか。つまり、エネルゲイアは、デュナミスをエネルギーに転換するのである。わかりやすく言えば、ポテンシャル・エネルギーをダイナミック・エネルギーに変換するのがエネルゲイアであると考えられるのである。
 ここで、さらに作業仮説して、エネルギーがエネルゲイアの現象態と考えたらどうだろうか。つまり、即非態・差異共振シナジー様相が、連続的同一性化=現象化されるとき、そのエネルゲイアは、放出されるエネルギーとなるのではないのかということである。つまり、差異は、連続的同一性化されて物質になるが、差異共振シナジーエネルゲイアは、エネルギーに変換されるのではないのか。エネルゲイアの連続態がエネルギーではないのか。それは、また、振動・波動である。それが、イデア・コスモスの痕跡ではないのか。
 ここで、人間現象を考えよう。人間は心身を形成するが、それは、人間のイデアの現象化であるが、そのとき、エネルギーが発生すると言えよう。言わば、過剰なエネルギーが放出されるのである。そして、これが、即非・差異共振シナジーの動態(エネルゲイア)の痕跡ではないのか。これは、振動・波動である。(おそらく、「気」は、この振動・波動である。)また、人間の「無意識」というのも、このエネルギーのことではないのか。そう、これは、心的であり、同時に、身体的でもあるだろう。つまり、心的エネルギーであり、身体的エネルギーでもあるだろう。(これが「気」である。)そう、これは、物質的に計量できるだろう。例えば、磁気や電磁波として測定されるのだろうし、熱量として測定されるだろう。しかし、それは、物質量である。
 私は何が言いたいのか言うと、エネルギー概念の変革である。エネルギーは、根本的には物質エネルギーではなくて、イデア・エネルギーなのではないかということである。虚エネルギーであるということである。虚エネルギーの現象化が、物質エネルギーと言えるだろう。だから、核融合とは、現象としての物質エネルギーを発出するが、実相的には、差異イデア共振エネルギーの変容ということではないだろうか。
 E=mc^2というのは、あるいは、E=hνというのは、エネルゲイア(エネルギー)の現象公式ではないのか。以前書いたが、元エネルギーをproto-E(=pE)とすれば、pE×i=E=mc^2である。だから、pE=E/i=mc^2/i=−imc^2となる。−imc^2がエネルゲイアとなるのである。
 以上はまったくの思考実験である。