夢とは何か:即非様相のヴィジョンとしての夢、想像力、諸芸術

夢とは何か:即非様相のヴィジョンとしての夢、想像力、諸芸術


テーマ:プラトニック・シナジー理論


昨日、久しぶりに夢を見たが、法人のノートパソコンを知らない人の車の中に置いておいたら、車が出ていってしまい、パソコンが取られてしまい、賠償をしなければならなくなった。お金がないので、困っていたところで、目が覚めた。
夢の中では、現実感・リアルさがあったが、この夢の現実感・リアルさとは何だろうか。
 以前、夢について、理論化したことがあるが、再考したい。
 一言言えば、Seeing is believing(百聞は一見に如かず)ということわざ通りである。見ることと信じることが直結しているのである。では、「見ること」とは何だろうか。ヴィジョンの問題である。そう、想像力と関係している。すぐれた小説の想像力と似ていると思う。現実感・実在感喚起力である。
 そう、プラトニック・シナジー理論から見たら、どうなのかということである。これは、フッサール現象学の志向性と関係しているように思える。
 直観で言えば、志向性とは、ヴィジョンである。これが、簡単に言えば、現実感を作っているのである。きわめて、主観的である。(妄想もここから発するのだろう。)そう、人間の意識はこの主観性が形成されていると言っていいだろう。主観的ヴィジョンである。主観的現象である。プラトンの洞窟の比喩を想起する。ここで、思考実験すると、心的主体性(心的主観性)は、「光」である。それが、連続的同一性の志向性をもって身体的他者へと投影する。この投影像が主観的ヴィジョンないし夢ではないのか。「光」が「闇」に自己投影するのである。この闇のスクリーンに映る影像が夢ではないのか。
 では、いわゆる、現実・現象とは何だろうか。それは、身体的他者の情報を、心的主体性が受容するときに発生するものではないのか。外的光と内的光の結合が現象なのであろうか。
 ここでも直観で言うと、夢と現象との区別は、この外的光の有無にあるだろう。では、外的光とは何か、である。これは、身体的他者(闇)であるのか。ここで発想を変えたい。
 夢のヴィジョンとは、本来、身体的他者のヴィジョンではないのか。というか、身体的他者の影像ではないのか。私の直観では、身体から夢の映像は発しているのである。身体からの映像を見ているという感じである。そう、これは、一種、即非的なものがあると思われるのである。つまり、先に、モームの『月と六ペンス』に関して述べた身体的霊性と関係するように思うのである。心的主体性は、連続的同一性化においては、能動的であり、身体的他者を支配することになる。しかし、夢の映像においては、身体的他者が一種主導性をもっている。だから、夢の映像においては、心的主体性と身体的他者性とが共振していると考えられるだろう。だから、身体的霊性がここにはあるように思えるのである。つまり、即非様相が出現していると思えるのである。思うに、この即非様相が、夢の不思議さの原因ではないのか。本件では、夢のリアリティは、この即非様相が生んでいるのではないのか。
 換言すると、リアリティとは、即非様相ないし即非事象・事相にあるのではないのか。単なる連続的同一性では、リアリティは生じないのではないのか。近代主義の空虚感、ニヒリズムはここから来るのではないのか。
 我々が現実と言っているものは、即非事象が根源になければ、非現実ではないのか。フッサールの生活世界という思想は、この即非事象を指しているのではないのか。『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の危機とは、連続的同一性によって即非事象が喪失されることにあるのではないのか。
 とまれ、ここでの暫定的結論は、夢の映像は、即非事象から発するということであり、リアリティもここから生まれるということである。そう、イマジネーション・想像力も即非事象から生まれるだろうし、私の言う直観・ヴィジョンも同じであろう。
 ここから、他に何が言えるだろうか。芸術の根源も、即非事象にあると言えるだろう。ムーサイ(詩神)は、ここから発しているのだろうか。いわゆる、霊感・インスピレーションも、ここから発するだろう。そう、詩人で版画家のウィリアム・ブレイクが言う芸術・宗教の根源のGenius(精霊)も正にここにあろう。宗教の根源もここである。
 芸術家・作家の言うコスモスもここが根源であると思う。そう、すぐれた諸芸術は、即非事象を表現し喚起するのだろう。ブリューゲル(父)の絵画の鮮烈さの秘密はここにあるだろう。一見写実主義であるが、そうではなく、即非事象を描いているのだろう。



http://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Brueghel_the_Elder


 では、デューラーはどうだろうか。私の好きな版画家である。不気味な『黙示録の四騎士』はどうだろうか。『メランコリア』はどうだろうか。そう、それらは、アレゴリーによる超次元の提示があるのだと思う。やはり、一種即非様相である。



http://de.wikipedia.org/wiki/Albrecht_D%C3%BCrer


 思うに、ルネサンス諸芸術は、コスモスの調和が支配していると思う。ルネサンスの美学に「調和する不調和」discordia concorsという概念があるが、正に、それは、即非様相を意味しているのだろう。そう、古代人、東洋人はこれをよく理解していたと思う。日本の美学は、正に、これである。日本庭園の美学。そう、禅とは、不調和を調和にする精神性であろう。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%AD%E5%9C%92


 最後に、この即非事象が根源であり、夢は、そこに回帰することで発生する映像であろう。では、夢とは、個の「精神」が即非的虚次元・超次元に回帰していることを意味するのではないか。個の「精神」が虚次元に回帰して、そこで、虚次元のエネルゲイアを「充電」しているのではないだろうか。この虚次元のエネルゲイアをもって、目覚めるということではないのか。これが、即ち、元気であろう。気とは、エネルゲイアである。近代主義の病理とは、この本源を喪失していることにあるだろう。ニーチェが言ったように、永遠回帰が必要である。これにより、人類は、元気を回復するのである。そして、とりわけ、日本人は、虚次元・超次元の即非エネルゲイア様相に回帰する必要があるのである。前近代日本=トランス・モダン・ジャパンである。


Return to Pre-Modern Japan/Trans-Modern Japan.
Return to Proto-Japan.
Return to Eternal Energy.


p.s. 夢と眠りを混同しているので、後で再考したい。

不連続な読書日記へのTB
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070119
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070120
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070121