中沢新一の映画的理論とプラトニック・シナジー理論の比較:形態の発

中沢新一の映画的理論とプラトニック・シナジー理論の比較:形態の発生に関する思考実験


テーマ:プラトニック・シナジー理論


昨日の夢は、いわば、予知夢であった。今朝は危ないところであった。動悸がして、胸が締めつけられ、心臓辺りが痛むようになった。これは、まずいと思った。心筋梗塞か何かだと思った。病院に行き、検査してもらうが、循環器系の専門医がいないというので、救急車で、隣の市の循環器専門の病院に行き、治療した。結果は、安心したことに、不整脈であった。血液検査から、心筋梗塞の時に生じる細胞の破壊はないということであった。餅は餅屋である。まぁ、日本の救急医療体制のシステムには、感心した(いろいろ、不祥事が起きてはいるが、すばらしい。職人的である。)
 とまれ、発作性上室性不整脈(発作性上室性頻拍)ということであった。【発作性上室性頻拍(PSVT:Paroxysmal supraventricular tachycardia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%95%B4%E8%84%88
http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec03/ch027/ch027d.html
予知夢であることを言うと、見知らぬ車は、救急車であり、ノートパソコンは、私であり、そして、賠償額を払えないというのは、最初、保険証がないと思い、自費で支払うことになったが、それだと、所持金が足りなかったのである。ただし、予知夢と異なるところは、保険証があったので、比較的少額の医療費で済んだことである。
 以上は枕であるが、以下の『不連続な読書日記』で説かれている中沢新一の映画的理論は、プラトニック・シナジー理論と似ている部分があるので、少し検討したい。もっとも、中沢新一の宗教論は、霊的唯物論である。つまり、プラトニック・シナジー理論で言うと、-(-i)*(-i)⇒−1の理論である。心的主体性を否定して、身体的他者中心主義(霊的唯物論)を説いていると考えられるのである。
 先ず、映画的理論の第一の要素の「第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。」の箇所であるが、これは、プラトニック・シナジー理論で言えば、心的主体性iに相当するだろう。第二の要素の「第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。」であるが、これは、志向性であろう。心的主体性の志向性であろう。→である。つまり、i→(-i)の→である。第三の要素の「第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。」であるが、これは、身体的他者性-iである。
 以上から、中沢新一の映画的理論は、プラトニック・シナジー理論の構成と共通していると言えよう。
 次に、イメージの三つのタイプについて見てみよう。
第一のタイプ:「第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子 のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。」この点は、私が昨日夢について考察したことに共通するだろう。この「現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群」とは、プラトニック・シナジー理論では、即非様相・事象・事相と考える。これは、イデア・メディア界的事象であり、ここには、現象/物質界的なイメージはないのである。内在超越的な次元であり、不可視であり、「無」である。思うに、この点で、中沢氏の映画的理論とプラトニック・シナジー理論は、根本的に踵を分かつと言えよう。つまり、即非事相ないし差異共振シナジー事象は、前物質的な様相なのである。
 第二のタイプ:「第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。」この第二のイメージ群は興味深い。これは、プラトニック・シナジー理論では、正に、垂直から水平への展開(回転)を意味するのであり、中沢・映画的理論と共通である。ただし、中沢氏が垂直を虚軸、水平を実軸として捉えているかはわからない。とまれ、この第二のイメージ群とは、連続的同一性に相当すると言えよう。ここは、具象の問題である。心的主体性と身体的他者性とが結合するのであるが、この連続的同一性のイメージの問題は、まだ、明確にしていないので、中沢・映画的理論は参考になる。中沢氏は、精神と物質との接触において、具象イメージの発生を考えているが、プラトニック・シナジー理論はそのようには考えない(思うに、中沢氏の理論は矛盾しているのではないだろうか。根源的領域が唯物論的であり、かつ、現象領域が物質的である、というのは、矛盾だと思う。論理的に破綻していよう。)。即非様相が連続的同一性(連一性)/水平化して、現象・物質が発生すると考えるのである。予め、物質があるのではないのである。物質は仮象なのである。プラトニック・シナジー理論では、心的主体性iと身体的他者性-iとの接触において、現象・物質の形成を考えるが、このイメージ発生の論理・力学をどう説明するかが未だに未解決の問題である。ただ、連続的同一性という形式・形態をそこに見出しているに過ぎない。(そう、以前、この問題については、差異の数を考え、それが、円環して、内在的な正多角形を形成すると仮定したことがある。例えば、差異が三つあれば、正三角形を形成し、五つあれば、正五角形を形成すると考えた。)おそらく、この問題が、現時点でのプラトニック・シナジー理論アポリア(難問)であろう。例えば、どうして、木は、木のイメージをもつのか、山は山の。思考実験的に私の経験から考えよう。ずいぶん、以前に述べたことがあるが、晩秋の秘境を旅していて、そのとき、窓外の山を見て、いかにも、 △に見えて感動したのである。山は、山だから、山なのだ、というような理屈にならない感想をもったのである。そのときの感想を論理的言葉にすれば、ロゴスないしイデアとしての山=△であり、それが、窓外に見る山として顕現しているというようなことではなかったかと思う。少しハイデガー的であるが。
 私は何を言いたいのだろうか。やはり、イデア論である。形相としてのイデアがあり、それが現象化しているというようなことである。では、形相=イデアは、どこにあるのかと言えば、それは、意外に、即非事象に発生しているのではないのかと想定するのである。中沢氏は根源的領域を闇の領域としているが、即非領域とすれば、そこには、差異と差異の無碍の様相が発生するように思えるのである。そう、多様性と言ってもいいだろう。そう、プラトンのコーラに相当すると思う。形態形成発生領域である。問題は、この多様性領域をどう力学化するのかである。この問題は保留したい。
 次に、第三の要素:「第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。」についてであるが、これは平明であろう。単純な水平化である。水平的連続化である。これは、小説・物語的連続性と言えよう。あるいは、時間的連続性と言えよう。では、保留の問題に立ち返り、検討しよう。
 先の考えでは、イデア・メディア領域・即非領域において、形相・原型・イデアがあるのである。ここでは、具体的に、螺旋のモデルを考えよう。これは、様々な現象に見ることができる。巻貝、渦巻星雲、弦巻植物、等々。これは、イデア・メディア平面(ガウス平面)における回転と垂直の捩れを考えれば、説明できるように思う。+の虚軸Y軸と−の虚軸・Y軸の回転を考えると、それが−1や+1となる。そして、垂直、Z軸へと螺旋を描くのではないだろうか。そう、Z軸が時間軸とすれば、Z軸方向へと螺旋形状が発生するのではないのか。つまり、イデア・メディア平面・ガウス平面での回転が、垂直に捩れて、螺旋形状を発生させるという作業仮説である。(細かい齟齬は無視しておく。思うに、Z軸が前後方向ではないだろうか。X軸が左右方向で、Y軸が上下方向である。)
 しかし、そのように考えると、即非次元には、イメージはないことになるだろう。それは、やはり、連続的同一性化において発生することになろう。それはいいとしよう。
 では、正多角形はどうやって発生するのか。ここで思考実験で、回転円において、複数の差異が存するとしよう。差異の等価性という仮説を立てると、円上の複数の差異が正多角形の頂点を形成するだろう。三つの差異の場合が正三角形であり、四つが正方形であり、五つが正五角形であり、等々。(ここで、角運動の問題があるだろう。)とまれ、このように回転円上の等分割の複数の差異を仮定すると、正多角形の形態が生じると言えよう。これらを螺旋形状に乗せると、花弁等の形状が考えられるだろう。
 今はここで留めたい。


資料:
2007-01-20 映画としての宗教

 『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハ唯物論的宗教論や旧石器時代 の洞窟壁画のイメージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている構造と、そっくりだという事実」──「映画は発明される以前から、すでに存在していて、ヒトの心にとって重大な働きをしてきた」「映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めた」というヒトの心の本質とイメージの運動と宗教の発生に関する考古学的事実──について語っている。以下、手短に要約してみる。

 イメージの興亡もしくはイメージの運動とその構造としての宗教をめぐる「映画的理論」は、次の三つの要素からなる。第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。

 また、イメージには次の三つのタイプがある。第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子 のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。

  第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。

 第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。

 これら旧石器の洞窟壁画に現われたイメージ群、とりわけ第二群(記号性)と第三群(幻想性)の層に属するイメージに基づいて、新石器の都市世界を中心に豊かな多神教 (物質性をまとったイメージ=偶像としての神々)の世界が造形されていく。

 物質イメージの魔力(そして偶像としての神々と結託した王権・帝国、すなわち幻想としての国家の呪縛)からの脱出(エクソダス )をはかったのがモーセ の革命である。すなわち非イメージ的なことばの象徴力に基づく一神教(モノティスム)の宗教思想であった。しかしイメージの魔力の上に立つ「メタ・イメージ」の方向に抜け出ようとした一神教は、かえって宗教を巨大な映画館にしてしまい、自らのまわりに物質的な力を呼び集めてしまった(ハリウッド映画はそのカリカチュア)。

 イメージの魔力からのエクソダスには、これとは違う二つの道がある。その一は、イメージの第二群・第三群(観念的イメージ群)の働きを否定し、イメージ作用の第一群(差異の運動がくりひろげられている裸の現実世界、唯物論的イメージ群)の方に向かう唯物論。その二は、ブッダの道。人間の本質である「心」、その「心」の本体である流動的知性の無限の働きにたどりつくこと。身体を使い第一群のイメージの深い淵に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性に直接触れていくこと。(要約終わり)


(参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10023993436.html
注:RENSHIが色分けした。)


不連続な読書日記 へのTB
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070120