ヴィジョンとは何か:視覚とはどこから生じるのか:夢の問題から

ヴィジョンとは何か:視覚とはどこから生じるのか:夢の問題から

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

夢のヴィジョンに拘りたい。夢は不思議である。夢の映像は、夢を見ている時は、現実である。ほんとうに、現実と感じているのである。リアリティがあるのである。Seeing is Believing. 見るとは、何か。視覚・視とは何か。ここでも、直観から考察しよう。

 私は、ヴィジョンは、身体的他者と関係していると思っている。感覚的に言えば、身体の奥底からヴィジョン・視覚・映像が生まれると感じられるのである。それは、何だろうか。そう、身体的他者に映る映像である。ここで、作業仮説的に、このヴィジョンを心的主体性iと身体的他者性-iとの「融合」によって形成されるとしよう。すると、これは、連続的同一性というよりは、即非的「融合」を意味しているのではないだろうか。また、リアリティとは何かの問題ともなるのであるが。

 では、目覚めている時の視覚認識はどうなるのだろうか。それは、即非認識なのか。今、眼前に本がある。ここには、リアリティがある。本のリアリティがあるのである。(私はここに個物・個体の特異性を見るのであるが。)その本を単に物質とみるならば、それは、i*(-i)⇒−1である。しかし、私はそれを、差異的同一性と見なすので、i*(-i)⇒+1である。すると、やはり、即非様態である。これは、理事無碍であろう。

 すると、夢と覚醒時のリアリティの知覚が共通となるだろう。ただ、覚醒時には、外的光があるのが、異なる点である。

 では、問題は、夢の時の身体的他者-iと、覚醒時の身体的他者-iの違いである。この違いは、当然ながら、外的知覚の有無にある。そう、即非的光と外的光の問題である。見る・視覚とは、何なのか。作業仮説的に言うと、心の光と身体の「光」(闇)の結合したときに発生する光の認識ではないのか。光と闇の接合が見ること・視覚ではないのか。おそらく、光の目と闇の目があるのであり、両者の目が合一した面が、即ち、見ること・視覚・視である。思うに、この境界面で、色彩や虹が生じるのであろうし、また、形態・形相も発生するのではないだろうか。元像である。ここが、主客合一の領域でもあるだろう。因みに、日本語の文法は、ここを反映していると言えよう。ここでは、内と外が即非様相にあるだろう。あるいは、未分化と言えるかもしれない。いちおう、これが、即非的光ないし即非的ヴィジョンの解明としよう。

 次に外的光であるが、それと、即非的光の内界はどう関係するのだろうか。問題は、外界の光とは何か、である。具体的に考えよう。早朝の光を考えよう。光り輝く太陽が上る。これは、何か。オカルト主義者は、これを内なる太陽の光と見るだろう。しかし、それでは、外なる太陽を無視している。内なる太陽と見るなら、それは、夢と同じである。そう、オカルト主義者は、夢と現実を混同しているのである。

 ここで、連続的同一性志向性を考えるべきだろう。これは、言わば、心の光で身体の闇を同一性化するのである。おそらく、これが、外界の光ではないのか。つまり、心の連続的同一性・現象化が外光であるのではないのか。ここでは、身体の闇は覆われているのである。つまり、現象光は、即非の光の連続的同一性現象であるということになる。そして、この現象光を内界の視覚は見ていることになるだろう。おそらく、ここには混乱が生じるだろう。内界の視覚は、心の光と身体の闇の即非的視覚であるから、本来、即自的である。しかるに、外光に接した時、それは、対自化(あるいは、疎外)されるのである。内界の視覚は、いわば、外光に眩(くら)まされて、身体的闇を喪失して、連続的同一性である外光に、いわば、襲われるのである。このとき、おそらく、内界において、反動が生じて、内界は、外光に対して、反抗する視覚を投射すると思うのである。即ち、内界自体が連続的同一性化するのである。これが、自我の誕生であろう。内界が自己であるが、それが、否定・排除・隠蔽されるのである。そして、ここに、無明(フッサールの自然的態度)が発生すると考えられるだろう。イデア的光から、現象的光への転化がここにはあるのである。

 今は、ここで留めたい。


p.s. 後で再検討したいが、外的光は、+1と−1の二重光ではないのか。また、太陽であるが、太陽の光・エネルギーは、E=m×(+ic)× (−ic)ではないのか。元光(内超光)の現象化とは、+1の光と−1の光になるということことではないのか。つまり、具体・感覚的に言えば、太陽光を見る・視覚するとき、二重光を見ているのである。直観的に言うと、コスモスとしての光は、+1であり、物質としての光は、−1ではないのか。言い換えると、全体感をもたらす光は、+1ではないのか。あるいは、端的に、光は+1で、闇が−1ということかもしれない。
 思考実験すると、心的光=+ic、身体的光=−icとしよう。そして、これが、即非様相では、(+ic)*(−ic)となっているということではないか。そして、これが、連続的同一性(連一性)化して、−mc^2となるのではないのか。しかし、連続的同一性化は、差異を隠蔽しているのである。だから、 mc^2があるはずである。マイナス・エネルギーとプラス・エネルギーである。核融合は、後者であろう。すると、連続的同一性化=現象化とは何か、となろう。それは、i化なのではないのか。i*i⇒−1,(-i)*i⇒+1ではないのか。前者が連続的同一性化であり、後者が差異的同一性化であろう。人間で言えば、自我と自己(個・差異)ではないのか。視覚で言うと何なのか。私が精神・霊的光、コスモス的光というのは、後者であろう。そして、物質主義の光が前者ではないだろうか。つまり、現象とは、物質と精神が重なっているのであるが、そして、おそらく、二重光があるのであるが、自我は、物質の光しか見ないのではないか。つまり、二つの光があるということである。そう、感性的光と精神的光(アウラ)である。感覚は、両者を捉えるだろう。例えば、私は、大きな山容を眺める。そのとき、山は、感性的光と精神的光の二つの光を発しているということになるのではないだろうか。かつて、古代人は、山を御神体と見たが、それは、精神的光の感覚・知覚を古代人がもっていたからではないか。今でも、山は、精神的光を発しているのであるが、現代人は、近代主義に洗脳されていて、感性的光しか見えなく、山は死せる山、物質の山となっていると言えよう。
 経済の問題を考えると、単に感性的価値で捉えているだろう。しかし、精神的価値を評価する必要があるのである。精神的経済があるのである。精神・物質経済である。これは、すべてに当てはまるだろう。
 後で、精緻に再検討する。