プラトニック・シナジー理論と素粒子:イデア界・差異/メディア界・

プラトニック・シナジー理論素粒子イデア界・差異/メディア界・量子/現象界・物質:新三界論


テーマ:精神と物質:即非態と連続的同一性態


ここ約一週間、忙しくなるので、更新が少なくなるが、今簡単に、プラトニック・シナジー理論素粒子・量子との関係の大枠を示唆したい。
 既述済みだが、プラトニック・シナジー理論(PS理論ないし通俗的にプラシナ理論)の複素数的差異イデア論によって、素粒子・量子の実体が明らかになると思えるのである(仮説)。即ち、虚軸・虚次元的差異イデア、これが、素粒子・量子の実体であると思われるのである。だから、素粒子・量子の実体とは、前物質であるか、又は、差異イデアを実軸・実次元の観点から観測・仮説したものと考えられる。
 そして、差異イデア界とは即非界であり、即非エネルゲイアが存しているのであり、それが、回転によって、実エネルギーに変換しているように思えるのである。量子力学の場とは、正しくは、即非界のエネルゲイア・フィールドのことと思われるのである。ここは、零度(ゼロ度)の差異イデアエネルゲイアが占め、前・元物質領域と思われるのである。プラトンの哲学のコーラに相当するものがここであると考えられるのであり、ここには、元光があると思われる。思うに、元光とは、元闇と言っていいように思えるのである。ここでは、光と闇は一致していると思うのである。太極と言ってもいいだろう。何度も既述したが、宗教的光はここを指していると考えられるのである。
 光の問題について言及すると、即非エネルゲイア(以下、虚エネルギー)が元光と思われるので、元光を虚光と呼んでいいだろう。そして、この領域は、実次元では、ゼロであるから、虚光は無限速度、超光速としていいだろう。そして、ここが、宗教的には、神、仏の領域である。これも既述事項であるが。
 問題は、虚光から実光への変換、ないし、虚数界から実数界への変換である。無限から有限への変換である。ここで、おそらく、対称性(の破れ)や多様態の問題が生じるのである。それは、これまでの考えで言えば、回転である。1/4回転ないし1/2回転である。1/4回転によって、虚軸から実軸へと変換するのであるが、このときに、差異イデア=「素粒子」・「量子」から粒子・物質現象が発現すると考えられるのである。
 精確に言えば、差異イデア素粒子・量子→粒子・物質現象であり、素粒子・量子は、いわば、イデアと物質との境界現象である。あるいは、物質面に投影されたイデアの影である。
 ここで簡単に思考実験すれば、素粒子とは、差異イデア即非差異イデア、差異イデア共振シナジー)が実体・本体・真相であり、換言すれば、差異イデアの多様な様相が素粒子・量子であると考えられるのである。差異イデアをi*(-i)と仮定すれば、全体の1/4回転は、(i*i)*{(-i)*i}→ (−1)*(+1)となり、言わば、−の実エネルギーと+の実エネルギーが発生するように思えるのである。負のエネルギーと正のエネルギーである。エネルギーの極性的対発生があると思うのである。
 ここで質量を考えると、それは、実エネルギーと一如(いちにょ)であると思えるのである。なぜなら、実数化・実次元化=物質現象化であるからである。実エネルギー化=物質現象化である。E=mc^2は、これを把捉したものと考えられよう。
 ここで、図式化すると、差異イデア1*差異イデア2が即非イデア界にある。差異イデアが元素粒子ないし元原子(元アトム)である。そして、これが、連続的同一性化して、実数となる。例えば、差異イデア1は、 −1となり、差異イデア2は、+1となる。実数±1が物質の単位であろう。つまり、素粒子である。そして、質料と実エネルギーは一如である。そして、対称性の破れ等によって、素粒子は多様に生成変化、対発生消滅をすると考えられるだろう。この問題は、ここでおいておく。
 次に思考実験であるが、−1と+1であるが、−1が重力(質量)の方向、+1が光の方向ではないだろうか。E=mc^2とはこのことを示唆しているのではないのか。
あるいは、弱い力と強い力が、それぞれ、−1と+1なのか。即ち、i*i⇒−1(弱い力)、(-i)*i⇒+1(強い力)なのか。
 ここでは、とりあえず、作業仮説として、−1が質量(重力)の次元、+1を光の次元としよう。そして、強い力と弱い力であるが、それらは、即非エネルゲイアの極性の力の反映ではないのか。作業仮説として、連続的同一性の力を弱い力、差異的同一性の力を強い力としよう。思うに、思うに、連続的同一性志向性が弱い力と重力を発生させ、差異的同一性志向性が強い力と光を発生させるのではないのか。というか、連続的同一性の素粒子的反映が弱い力であり、差異的同一性のそれが強い力ではないのか。つまり、即非界内部の「力」の反映が弱い力と強い力であり、また、その結果が、対自的結果が重力と光ではないのか。言い換えると、即非エネルゲイア・虚エネルギーにおける即自的力の反映が弱い力と強い力、対自的力の結果が重力と光出はないのか。簡単に言えば、即非エネルゲイアの斥力の反映が弱い力であり、引力の反映が強い力ではないのか。
 もしそうならば、強い力と弱い力のペアと、重力と光のペアは、位相が異なるのではないか。前者は、虚次元の事象の極性の説明であり、後者は実次元の事象の極性の説明と考えられるからである。なぜこのようなことになるのかと言えば、素粒子という考え方が、イデア界と現象物質界の境界概念であるからである。つまり、メディア界としての素粒子・量子なのであり、中間概念・境界概念として、イデア界と現象物質界の両事象・事相を指示しうる、即ち、両界を混淆・混合・混同して記述してしまうからではないだろうか。今は、ここで留めたい。
 さて、最後に、ここで、プラトニック・シナジー理論(PS理論、プラ・シナ理論)の世界構成を考えると、これは、不連続的差異論と同様の三界構成(イデア界/メディア界/現象界)であるが、内容が異なると言えよう。イデア界は、即非差異イデア界であり、差異イデア共振シナジー界である。そして、それが、現象界へと変換するとき、イデアと物質の境界・中間世界であるメディア界を形成すると考えられるのではないだろうか。ここは、不連続性と連続性の混淆した世界であり、有り体に言えば、混濁した世界である。ポスト・モダンは、この世界に留まり、行き詰まり、頓挫したのではないか。ドゥルーズガタリの内在性の理論とは、正に、このメディア界の理論だと思うのである。ここでは、連続性が含まれるので、本来、不連続である差異が連続=微分化されるのである。パース、ベルクソンホワイトヘッドハイデガーの哲学もこのメディア界の哲学である。そう、構造主義もここに属すと言えよう。また、対称性の破れもここの事象に属すのではないだろうか。ベンヤミンが、星座=布置的理論を説いたが、それは、プラトンライプニッツの中間的理論であるが、「星座」という概念は、後者の予定調和に似て、このメディア界の理論であると言えるだろう。さらに言えば、原型論・プロトタイプ理論であるが、それも、このメディア界の理論であると言えよう。ゲーテの原型論(原植物論)やシュタイナーの霊的原型論やユング心理学の元型論、等は、やはり、このメディア界の理論で、折衷的混濁した理論であると言えるだろう。後、少し付記したい。
 

参考1:自然界の4つの力、その他
http://www.kek.jp/kids/class/particle/force.html
http://www.kek.jp/kids/jiten/particle/particle.html
http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/gaiyou4fouce.htm

●4つの力と5番目の力
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity221.html

参考2:トランスモダンの歴史哲学
http://www.kinokopress.com/civil/0404.htm

参考3:ベンヤミンの「星座」
http://www17.plala.or.jp/orion-n/ESSAY2/1.html