現象化とは何か:即非イデアの連続的同一性化と差異的同一性化

現象化とは何か:即非イデアの連続的同一性化と差異的同一性化


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


ここ数日、更新がほとんどできなくなる予定であるが、ここで、簡単に今の難問である本件について、述べておきたい。
 これまで、現象化を連続的同一性化とほぼ等しいと考えてきた。しかし、同時に、差異的同一性という「現象」事象もあるのであり、両者をどう整合的に捉えるのかが、今の問題の一つである。
 今の直観的全体・見取り像では、差異と差異の即非様態がイデア界であり、この差異と差異との即非様態がイデアである。ここのポイントは、イデアとは、差異と差異との即非態であることである。あるいは、差異と差異との零度の共振シナジー様相にあることである。また、さらに、それが、i*(-i)という虚数軸に存していることである。
 今は、前者の、イデアが差異と差異との共振シナジー様相であることのポイントを考えると、イデアとは、単に、差異だけではないということが重要な点である。差異は他の差異との共振によってイデアを形成しているということである。ここで簡明にするため、差異イデアをディデアdideaと呼びたい。
 だから、問題は、ディデアと現象との関係である。あるいは、ディデアと物理学(量子力学)との関係である。端的に言えば、ディデアと量子・素粒子の関係はどうなのかである。
 ここでも、直観像を言えば、ディデアの現象界への投影が、量子・素粒子だと思えるのである。そう、粒子と波動の相補性であるが、波動は共振シナジーの発現と考えられよう。そして、粒子であるが、簡単に言えば、ディデアの発現が素粒子であると言えるが、問題は、ディデアの内包する差異の発現ではないのかという疑問があることである。この点について考察してみよう。

 (ディデア:差異ー即非ー差異)→素粒子・量子(粒子/波動)

であるが、図式的に見て、粒子は、やはり、ディデア全体と見た方がいいように思う。なぜなら、ディデアが波動となるなら、当然、波動に対応する粒子がディデアであるからである。(とりあえず、そうしたい。)
 さて、次に、諸力を考えると、ディデアは、即非エネルゲイアをもつのであるが、それを極性と考えると、+・+、−・−、−・+、−・−の4通り、考えられるのではないだろうか。即ち、i*i、(-i)*(-i)、(-i)*i、(-i)*iとなるだろう。−1,−1,+1,+1である。
 少なくとも、牽引力と斥力が考えられる。引き合う力と引き離す力である。直観では、引き合う力が強い力、引き離す力が弱い力に転化するのではないだろうか。そして、これが、現象化して、−1=重力、+1=光となるのではないだろうか。(当然、ここは、すべて思考実験である。)そうならば、強い力と弱い力は、本来は、エネルゲイアの力である。
 そうならば、これは、認識においてどういうことになるのだろうか。まったく想像であるが、連続的同一性の認識は、重力と等しく、それは、正に、力、フォースである。そして、差異的同一性の認識は、光と等しく、それは、エネルギーである。また、物質について言うと、それは、m=E/c^2であるから、それは、本来、光の変容したものではないのか。光でできた現象体ではないのか。 そう、光という差異的同一性(正当な自己認識)は、正に、i*(-i)⇒ +1であるから、それは、ディデアとそのエネルゲイアを内在していると言えないのか。つまり、何が言いたいのかと言えば、光=差異的同一性=自己認識に達するときは、即非様態を内在(内在的超越的内包を)しているので、認識が、差異共振シナジー様態になっているのではないのか、ということである。いわば、光の精神様態にあるということである。これが、人間教育の到達目標の一つであろう。(仏教の解脱とは、+1を指しているだろう。空の悟りとは、このことであろう。)
 では、人間以外の自然を考えるとどうだろうか。当然ながら、±1の二重様態であるはずである。おそらく、−1と+1の様態で揺れ動いていると思えるのである。そして、これが、自然のバランスをとっていると考えられるのである。しかし、人間の場合(とりわけ、男性の場合)は、−1=連続的同一性(連一性)に傾斜しているので、自然のバランスが破れていると考えられるのである。即ち、−1=重力、力、暴力・戦争・権力が、+1=光、「共感性」、愛・平和・生命よりも優勢なのであると考えられるのである。そう、言い換えると、二つの知があるのである。物質的知性=悪魔と精神的知性=天使である。そして、当然、近代において、前者が後者を否定して、全面化したのである。西欧文明がこれを造形したのである。これは、西欧父権文明が、−1に傾斜しているからである。一神教が、そもそも、−1に傾斜しているからと考えらよう。
 さて、最後に、もう少し、量子力学にこだわりたい。つまり、4つの力である。究極的には、根源力として一つの力があるのではないだろうか。つまり、ディデアのもつエネルゲイアのことである。これが、根源力ではないだろうか。第5の力である。(思うに、十字架とは、これを象徴しているのである。ガウス平面の円運動、プラトンの説く円の完全性も同様であろう。東洋の五大・地水火風空も同様であろう。)
 では、エネルゲイアの極性と現象化の極性の関係である。先にも触れたが、強い力と弱い力は、イデア界的であり、重力と光は、現象界的であると思われるのであるが、これはどういうことであろうか。つまり、簡単に言えば、強い力と弱い力は、ディデアの即自性に関わり、重力と光は、ディデアの対自性に関わるということではないだろうか。換言すると、強い力と弱い力は、ノエシスに関わり、重力と光はノエマに関わるということである。あるいは、前者は、ミクロの世界に、後者はマクロの世界に関わるということである。いろいろ問題があるが、直観像を追求したい。
 そうならば、もう少し整合化すると、素粒子の観測において、現象・物質フィールドにおいて、それが境界フィールド、境界面、境界膜・境界スクリーンとすると、そのディデア的側面が強い力と弱い力であり、現象・物質的側面が重力と光であるということになるだろう。そう、先の考察からいうと、メディア界の両側面の事象なのである。
 今は、ここで留めたい。