学識ある無知について、その他二篇

学識ある無知について


テーマ:読書案内


『コスモスの崩壊―閉ざされた世界から無限の宇宙へ 』
アレクサンドル・コイレ (著), 野沢 協
の初めの部分に、クザーヌスの哲学の引用がかなりあり、難しいながらも、この哲学は、単に、「対立の一致」の思想でなく、プラトニック・シナジー理論ないし即非理論の先駆に思えたので、『学識ある無知について』を早速、読み出した。ドイツ人哲学者に多くある、息の長い文体で、また、内容も晦渋である。以下、i*(-i)⇒+1に相当する部分と思えるので、引用する。

「われわれの認識は、理性的(比量的)なやり方によっては決して矛盾したものをその始元において結合しえないのであるが、それというのも、われわれは本性上、われわれに明らかにされたものの中を動き回っているにすぎないからである。われわれの本性は、かような無限の力から遥かに遠く離れているために、無限の距離を隔てて対立する矛盾そのものを一挙に結合することができない。それゆえに、われわれは、絶対的最大者が無限であり、何ものとも対立せず、かつ最小者と一致することを、一切の理性的論議を超えて、比量的に捉えられない仕方で観るのである。ところで、・・・最大者と最小者は、「絶対的に」という意味の超越的な名辞としてであって、物質(moles)や力の量に及ぶどのような縮限をも超えて、その絶対的単純性のうちに万物を包括するという仕方で存在しているのである。」『学識ある無知について』平凡社ライブラリー p.27

p.s. ジョルダーノ・ブルーノの対立の一性の理論は、明らかに、クザーヌスの哲学に由来するように思える。
 ところで、クザーヌスやブルーノの哲学は、即非理論の先駆であると思えるが、どうして、哲学の主流から外れてているのだろうか。これは、対極性と弁証法が混同されているからであろう。ヘーゲル哲学は、前者を後者に、換言すると、差異を連続的同一性に同化吸収してしまったのである。これが要因の一つであると思う。
 また、ポスト・モダンのドゥルーズが、どうして、クザーヌス、ブルーノ、フッサールを評価しなかったのかと問えば、後者の理論・哲学は、内在的超越論であり、ドゥルーズの内在性の理論に合わなかったからである。内在性の思想は、近代主義的である。思うに、超越性の理論がルネサンスから近代合理主義への変化において、抜け落ちていくことになるのである。
____________________________________
ニコラウス・クザーヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ニコラウス・クザーヌス
ニコラウス・クザーヌス

ニコラウス・クザーヌス (Nicolaus Cusanus、1401年 -1464年 11月8日 )は、ドイツ の哲学者 ・数学者 ・枢機卿
ドイツのモーゼル河畔のクースに生まれる。 ハイデルベルク大学で学び、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。さらにケルン大学偽ディオニシウス・アレオパギタ らの思想に触れる。その後1430年 司祭 に叙階され、バーゼル公会議フィレンツェ公会議 )では指導的な立場で活躍、高名を得る。東西教会の和解のためにも奔走し、教皇使節としてコンスタンティノープル を訪問。1448年 に枢機卿、1450年 ブリクセン大司教。1464年 トーディにて死去。彼の生涯は教会政治家としての実践と、思想家としての理論が融合した類い希なものであった。

[編集 ] 思想

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。 また、カール・ヤスパース西田幾多郎 など後生にも多大な影響を与えたと言われている。生誕600年を期に日本でも注目が高まり、研究が進んでいる。

[編集 ] 主要著作

* De concordantia catholica
o 普遍的和合について(カトリック的和合について)
* De docta ignorantia
o 学識ある無知について
* De filiatione dei
o 神の子であることについて
* De dato patris luminum
o 光の父の贈りもの
* De visione dei
o 神を見ることについて
* Trialogus de possest
o 可能現実存在
* Directio speculantis, seu De non aliud
o 観察者の指針,すなわち非他なるものについて
* Complementum theologicum
o 神学綱要
* De venatione sapientiae
o 智慧の狩猟について

[編集 ] 邦訳一覧

* 『知ある無知』(De docta ignorantia,1440年 )岩崎・大出訳、創文社
* 『隠れたる神についての対話』(De dep abscondito,1445年 )
* 『神の探求について』(De quaerendo Deum,1445年 )
* 『神の子であることについて』(De filiatione Dei,1445年 )大出・坂本訳、創文社
* 『可能現実存在』(De possest,1460年)大出・八巻訳、国文社 1987年
* 『非他なるもの』(De non aliud,1462年)松山康国訳:『ドイツ神秘主義叢書7』創文社 1992年
* 『創造についての対話』(De Genesi,1446年)
* 『知恵に関する無学者考』(Idiota de sapientia,1450年)
* 『信仰の平和』(De pace fidei,1453年)
* 『テオリアの最高段階について』(De apice theoriae,1463年):上智大学中世思想研究所監修/『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』平凡社 1992年掲載
* 『光の父の贈りもの』(De dato patris luminum,1445年)/大出・高岡訳、国文社 1993年
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)
* 『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)酒井・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)/『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)坂本・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神を観ることについて』八巻和彦訳、岩波文庫 2001年(ほかに、説教と書簡を一つずつ掲載)
* 『神学綱要』(Compendium,1463年 )大出・野沢訳、国文社 2002年

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : ドイツの哲学者 | ドイツの数学者 | キリスト教神学者 | キリスト教神秘思想家 | 15世紀の数学者 | 数学に関する記事 | 1401年生 | 1464年没






学識ある無知について (単行本(ソフトカバー))
ニコラウス クザーヌス (著), Nicolaus Cusanus (原著), 山田 桂三 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E8%AD%98%E3%81%82%E3%82%8B%E7%84%A1%E7%9F%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9-%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9/dp/4582760775/sr=8-1/qid=1170504949/ref=sr_1_1/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books





神を観ることについて 他二篇 (文庫)
ニコラウス クザーヌス (著), Nicolaus Cusanus (原著), 八巻 和彦 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%82%92%E8%A6%B3%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E4%BB%96%E4%BA%8C%E7%AF%87-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9-%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9/dp/4003382315/sr=1-1/qid=1170509567/ref=sr_1_1/249-2110018-5082754?ie=UTF8&s=books



個と宇宙―ルネサンス精神史 (単行本)
エルンスト カッシーラー (著), 薗田 坦 (翻訳)
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30550871
http://www.amazon.co.jp/%E5%80%8B%E3%81%A8%E5%AE%87%E5%AE%99%E2%80%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%8F%B2-%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/481580155X/sr=8-14/qid=1170581110/ref=sr_1_14/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books

________________________________________

クザーヌスの超越論的即非論とイスラム教/哲学:連続的同一性とイデア


テーマ:PLATONIC SYNERGY


クザーヌスの天才的哲学に触れて、思いを馳せると、イスラム教ないしイスラム哲学を想起した。クザーヌスは、東西キリスト教の和解を追求しただけではなく、キリスト教イスラム教との和解を追求した人物である。クザーヌスの超越論的不連続論がそれを可能にしたと思えるのである。
 私は、何か、西欧中世においては、イスラム教やイスラム哲学・思想が導入され、西欧キリスト教哲学は、すぐれたものを生み出したのではないかと思えたのである。つまり、有り体に言えば、クザーヌスの哲学は、とても、イスラム教の思想に似ていると感じたのである。タウヒード(一性)の思想は、現象界の差異や多様性に基づいていると言っていい。これは、クザーヌスの発想と通じるのである。スコラ哲学のドゥンス・スコトゥスにしろ、とても、イスラム教やイスラム哲学を感じるのである。思えば、今村仁司氏は、スピノザ哲学とイスラム教との類似性を指摘していた。(参照:井筒俊彦著『意識と本質ー精神的東洋を求めて』)
 これらは、いったい何を示唆しているのだろうか。今、作業仮説を言えば、イスラム教やイスラム哲学は、古代ギリシア哲学や大乗仏教ゾロアスター教等の影響をもった宗教・哲学であり、それが、中世西欧に伝播して、キリスト教と「習合」して、すばらしい中世/ルネサンス哲学・思想を生んだのではないのか。つまり、それらは、基本的に、脱西洋主義的な、東西統一的な哲学・思想であったのではないのか。それが、近代西欧主義によって、解体されていったのではないのか。つまり、前近代にあった世界主義を、近代主義は、破壊して、いわば、夜郎自大な西欧中心主義のイデオロギーを形成したのではないのか。
 ここには、近代科学の問題がある。近代科学とは何か、である。初期近代科学におては、まだ、神学的要素があった。つまり、超越性があった。デカルトの合理主義も神の存在を必要としていた。神学と近代科学の分離に問題があるだろう。唯物論に問題があるだろう。近代的自我に問題がある。連続的同一性である。
 今、言えることは、差異エネルゲイアイデア界のエネルゲイア化によって、新たに、差異が活性化したのが、ルネサンスであり、それが、連続的同一性化によって、近代合理主義を生んだということであろう。ここには、父権主義の問題があるが、それは置いておき、ともかく、差異の活性化は、最初は、超越性(ルネサンス哲学・思想l)を喚起したが、その後、連続的同一性に転化して、近代合理主義を生んだと言えるのではないか。
 言い換えると、イデア界の賦活があり、それは、本来、即非エネルゲイア化であり、それが、ルネサンスで全面的に活性化した。だから、ルネサンス哲学・思想・芸術は、超越性をもっていたのである。しかし、その後、連続的同一性化が進展したのである。これをどう見るのかである。つまり、イデア界的エネルゲイアの現象化として、「近代化」を考えることができるだろう。ルネサンスは、イデア界的エネルゲイアの意識が強化されていた時代であり、その後、連続的同一性化である現象化が進展したのである。
 問題は、イデア界的エネルゲイア自己意識から連続的同一性的自我意識への「進展」である。(デカルト哲学は、この中間であるように思えるが。)ここでも、直観で考えよう。
 唯物論的思考に囚われるのは、外界の映像がまったく疑わしいものとは思えず、「心」があいまいで、不確かで、疑わしいときであろう。思うに、精神意識のプロセスがあると思う。最初は、イデア界的エネルゲイア的自己意識がある。内界と外界の意識があるだろう。内界は、本来、イデア界であるが、外界は、現象界であろう。そして、現象界は、本来、他者である。これに対して、内界の意識は、連続的同一性化する。即ち、言語を介して、内界と外界を一致(同一性化)するのである。もっとも、ここには、感覚も介している。(ここに、言語と感覚のメディア性がここにはあるのであるが、いちおう、その違いは、置いておく。)
 思うに、内界と外界の不一致か一致かで、プロト・モダンか、近代主義かの区別が発生するだろう。近代合理主義は、一致させたのであり、不一致の「差異」を否定・排除・隠蔽したのである。ここは、カント哲学の問題領域でもある。この近代主義的一致とは、正に、連続的同一性主義であり、それが、他者を否定・排除・隠蔽したのである。心的主体性である言語が、他者の差異を否定して、他者を連続的同一性化したのである。だから、言語的連続的同一性化と言っていいだろう。しかし、当然ながら、他者の差異が残っているのであり、この部分が、言わば、物自体なのである。そして、これが、イデア界的エネルゲイアに通じていると言えよう。近代主義は、この他者の差異、余剰を否定・排除・隠蔽していて、結局、それが暴力であり、逆に、他者の差異の反作用の逆襲を受けるのである。それが、狂気であろう。
 考えてみれば、言語的合理主義自体が、真実の捩じ曲げである。他者を、言語的連続的同一性化しているからである。つまり、近代合理主義は(数量化の問題はおいておく)、他者差異を否定した、いわば、自我中心的な観念である。そして、これは、錯誤である。他者・差異を捩じ曲げているからである。
 また、この他者・差異は、文化史的には、ロマン主義として、発現したと言えるだろう。あるいは、神秘主義として、発動したと言えよう。他者・差異とは、イデア界的エネルゲイアをもつものであるし、それは、イデア界に通じてるのである。(プロテスタンティズムとは、イデア界も言語的合理主義化したものであろう。危険である。また、コスモスというものは、この他者・差異のエネルゲイアに関係するのである。D.H.ロレンスのコスモス志向は、このことを意味するのであり、私が以前述べたように、ロレンスは、プラトンに遭遇していたのである。)
 近代合理主義は、この他者・差異を否定して、全体主義化するのである(ヘーゲル哲学)。これは、左翼、右翼を問わない。そして、近代合理主義が、唯物論と結びついたのであり、その結果、近代の唯物資本主義を生んだのである。思うに、近代化とは、ルネサンス的垂直⇒水平化への志向性の結果であると言えよう。垂直性が水平性に転化して、垂直性が消失したのである。これが近代主義である。
 しかし、これまで何度も指摘したように、この水平化への連続的同一性志向性とは、連続的同一性エネルゲイアであり、当然、零度のエネルゲイア=デュナミスを考えると、それとは、対になる対極のエネルゲイアが発動すると考えられるのである。連続的同一性のエネルゲイアとは、否定のエネルゲイアであり、本来、マイナス・エネルゲイアなのである。即ち、i*-(-i)⇒−1である。だから、対極のエネルゲイアとは、プラス・エネルゲイアと考えられるだろう。即ち、i*(-i)⇒+1である。
 問題は、どうして、否定のエネルゲイア、連続的同一性志向性が発生するのかである。それは、現象化が本来そういうものだからであろう。というか、人間以外の生命体においては、否定と肯定エネルゲイアのバランスがとれていると思われるのであるが、人間において、否定のエネルゲイアが優越的なのである。ここに人間・人類の特異性があると言えよう。つまり、人間・人類は、いわば、狂気的存在である。ホモ・ルナティクスである。(言語を使用するのが、本来、怪しいのである。言語は、連続的同一性のメディアである。そう、ここで、想起するのは、晩年、言語作家D.H.ロレンスが画筆をとって絵を描き出したことである。)
 では、言語的連続的同一性に対する差異の志向性の発生の仕組みの問題である。(ラカンの言う象徴界であるが、それは、この言語的連続的同一性に対応すると思うが、私は、不連続的差異論が生まれる前は、それは、父権的自我であり、狂気であると考えたものである。それは、近代的自我なのであり、それを解体するのが必要なのに【仏教の解脱、道元の身心脱落が正しい】、精神分析等は、それを温存しているのである。これが、西欧的学問の大問題点である。いわば、狂気を基盤にしているのである。)
 ここでも直観で考えよう。内界とは特異性である。だから、内界から外界へと志向して、言語的連続的同一性化しても、内界の特異性は、解消されずに、継続しているのである。だから、どれほど人間が言語的連続的同一性に傾斜していようとも、この内界=特異性は本来、消せない、無化できないものである。しかし、近代主義は、内界=特異性を否定・排除・隠蔽しているのである。(そう、内界=特異性とは、クザーヌス的に言えば、絶対性・超越性である。)この点をどう考えたらいいのだろうか。
 端的に考えると、連続的同一性が発生しても、特異性としての差異は残っているから、意識は、本来、二重性があるはずなのである。特異性としての意識があるはずである。そう、特異性としての身体的意識であろう。それを、近代合理主義は、否定・排除・隠蔽しているのである。これは、何を意味するのだろうか。存在しているものを、無いと見ているのである。これは、明らかに、誤謬である。錯誤である。虚偽である。ここには、不誠実さがあるのである。
 この問題は、以前の難問である。しかし、これは、男性の連続的同一性への傾斜で説明できるだろう。男性は、連続的同一性志向性に傾斜しているので、他者・差異・特異性を否定するのである。だから、男性の場合、無意識領域に、イデア界が深く潜在しているのである。そう、他者・差異・特異性の否定と言っても、それを無化はできないのである。ただ、無意識的潜在化を引き起こすのである。
 だから、男性の場合、この無意識的特異性の反転が生起すると考えられるのである。この力学構造は何であろうか。この問題は、大きな問題なので、別稿で述べることにしたい。

_________________________________________

脱連続的同一性エネルゲイアはどのように発生するのか


テーマ:プラトニック・シナジー理論


この問題は、プラトニック・シナジー理論の重要な難問である。イデア界は、零度のエネルゲイア=デュナミス=潜在エネルギーをもっていると考えられるだろう。これが、連続的同一性=現象化するのであるが、この連続的同一性=現象化のエネルゲイアに対して、エネルギー保存則を適用すれば、反連続的同一性=脱現象化のエネルゲイアが発現するはずである。
 ここでも、思考実験して行こう。i→(-i)が連続的同一性志向性を意味するのである。これは、i*-(-i)⇒−1となる。では、逆に、(-i)→i を考えるとどうだろうか。これまで、(-i)*-(i)⇒−1と考えたのであるが、どうだろうか。私の考えでは、(-i)*i⇒+1と考えたい気があるのである。つまり、ここには、非対称性があるのである。心的主体性による連続的同一性化は、⇒−1であった。しかし、身体的他者性による同一性化は、連続化ではないのではないかと思われるのである。
 思えば、先に、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性ということを言及したが、身体的他者-iは、根源的には、差異即非様相を帯びているのではないのか。冷静に考えよう。イデア界・差異即非界は、i*(-i)の様相にある。つまり、零度差異共振シナジー様相である。これは、静であり、且つ、動である。ゼロであり、無限大であると言っていいだろう。あるいは、無限小であり、無限大であると。もっとも、超越的無限小・無限大ということである。これは、虚数軸の事象である。そして、次に、現象化・実数軸化が生起するのであるが、これは、連続的同一性化であると考えるのである。i*-(-i)⇒−1である。これは、心的主体性の場合である。
 それに対して、身体的他者の場合を考えると、先に、私は、身体的同一性を考えて、それが、心的同一性と同様になると考えて、即ち、(-i)→i=(- i)*-(i)⇒−1と考えたのである。しかし、身体的同一性とは何であろうか。心的同一性の場合は、言語を介しているのであるが、身体の場合は、当然、言語は介していない。つまり、媒体が身体の場合は異なるのである。身体の媒体・メディアとは何か。ここで、作業仮説として、身体の媒体・メディアは光としよう。つまり、光が媒体となり、身体的同一性が発生するということになる。わかりやすく表記すれば、身体→光→心である。
 問題点は、心的主体性の連続的同一性は理解できるが、果たして、身体的他者の連続的同一性も同様に想定していいのか、である。言語は、このリンゴとあのリンゴを等価にして、リンゴと呼ぶのである。つまり、正に、連続的同一性の媒体である。ここでは、このリンゴの差異や特異性が否定されるのである。それに対して、身体的他者の連続的同一性とは、何かである。ここでは、リンゴは、光として発現しているのである。発光体としてのリンゴである。これは、当然ながら、差異・特異性としてのリンゴではないのか。心的主体性にとって、この発光体のリンゴは、差異・特異性のリンゴではないのか。ここでは、同一性は、連続性をもたないだろう。「これ」である。特異性singularity, specificityである。だから、身体的他者の同一性は、連続的同一性ではなくて、差異的同一性なのである。つまり、(-i)*i⇒+1なのである。
 これはどういうことなのだろうか。端的に言えば、心と身体において認識の分裂が生じているということである。前者は連続的同一性であり、後者は差異的同一性である。そして、前者の心的主体性による連続的同一性自我が、後者を否定・排除・隠蔽するというのが、近代主義である。しかしながら、ここには、二つのエネルゲイアがあるのであり、一つは連続的同一性のエネルゲイアであり、一つは差異的同一性のエネルゲイアである。そして、これらは、相補的であると考えられる。だから、前者が発動すれば、後者も発動するのであり、両者の均衡が求められるのである。だから、近代主義に対して、脱近代主義エネルゲイアが発動するはずである。これが、本件の問題への解明である。脱連続的同一性エネルゲイアは、身体的他者の差異的同一性のエネルゲイアなのであり、当然、最初から賦活されていたと考えられるのである。
 近代主義は、その慣性から、差異的同一性を反動的に否定・排除・隠蔽するのである。端的に、他者への暴力である。そして、これは、狂気なのである。錯誤・倒錯である。近代主義の末期症状である。これは、言わば、闇が光を抑圧・排除している倒錯的事象を意味するのである。
 だから、問題は、差異的同一性を肯定することで解決するのである。そう、連続的同一性は唯物論であり、差異的同一性は霊性論である。両者を両立させることで、トランス・モダンの認識論が形成されるだろう。
 最後に問題にしたいのは、以上の考察によれば、心が物質的であり、身体が精神的であるということになるのである。これは、いわば、パラドクシカルであるが、そうなのである。カント哲学で言えば、心が超越論的形式であり、身体が物自体であろう。
 では、このように考えたとき、空間、現象空間はどういうことなのだろう。確かに、空間3次元+時間1次元の時空4次元であるが、それに対して、言わば、身体次元が入るだろう。これは、光の次元ではないだろうか。コスモスの次元であると思えるのである。つまり、時空4次元に対して、コスモス次元を入れて、5次元空間となるように思えるのである。そして、コスモス次元とは、本源的には、虚数軸次元である。イデア界次元である。ならば、光は、イデア界の光と関係するだろう。つまり、元光の光である。E=mc^2とは、このコスモスのことを表記しているのではないだろうか。つまり、イデア界のエネルゲイアのことである。この公式は一見物質的エネルギーに見えるのがそうではなくて、差異即非イデアエネルゲイアの公式ではないだろうか。
 とまれ、イデア・コスモスが、身体において発現していることになるだろう。つまり、現象界とは身体的には、イデア・コスモス界ということになるのではないだろうか。物質は、連続的同一性から発生するだろう。つまり、物質空間形式は、連続的同一性から発生するということになる。
 では、物質空間の単位はどうやって発生するのだろう。それは、同一性からであろう。連続的同一性であれ、差異的同一性であれ、同一性からであろう。もし、同一性がなければ、すべては、特異性の様態であり、全く認知できないだろう。つまり、比較不可能になるはずである。AとBは特異性であり、比較不可能であり、認識不可能となるだろう。だから、Aの同一性、Bの同一性があって、AとBが比較可能になると言えるだろう。そして、ここから、空間が発生するのではないだろうか。そして、E=mc^2が、空間の形式でもあるのではないだろうか。かなり飛躍しているので、元に戻すと、問題は、現象時空間形式の発生をどう基礎づけるかということである。結局、iの同一性と-iの同一性のエネルゲイアが時空間形式を作るのではないだろうか。そして、この同一性が、光速度一定と関係しているのではないだろうか。作業仮説で、-iの同一性の光を、iの同一性が計量して、光速度一定となるのではないだろうか。
 とまれ、問題は、有限化の問題である。端的に、実数軸化でいいのではないだろうか。−1と+1である。これで、有限化と計量化が生まれたのではないだろうか。しかし、これは、虚数を排除しているので、無限、超越性を扱えないと言えよう。ならば、E=mc^2は何を意味するだろうか。あるいは、光速度一定である。光速度一定とは、+1に関係しているだろう。思うに、i*(-i)は、⇒+1=光速度一定となるのではないだろうか。ならば、E=mc^2とは、差異的同一性のエネルゲイアの現象・物質公式であろう。そして、Eは、零度エネルゲイアの有限化を意味するのではないだろうか。クザーヌス風に言えば、無限の縮限としての物質エネルギーということになるだろう。換言すると、元光エネルゲイアの縮限としての物質エネルギーEということになるだろう。
 ついでに、ダークエネルギーについて言及すると、差異的同一性の光のエネルギーがダークエネルギーではないのか。つまり、現代のエネルギーは、連続的同一性のエネルギーの視点から捉えられていて、差異的同一性のエネルギー(=ダークエネルギー?)を捉えていないということではないだろうか。そう、今日、観測しているのは、光の連続的同一性形式であり、差異的同一性形式ではないのではないだろうか。+1のエネルギーが計量されていないのではないか。思いつきが続いたが、この問題については後で再考したい。