近代主義という狂気・精神病を超えて:連続的同一性と差異共振性

近代主義という狂気・精神病を超えて:連続的同一性と差異共振性


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


これまで数えきれないくらい連続的同一性(連一性)の自我(近代的自我)と差異との関係を検討して、一応、結論はでていたが、最近、再び、連続的同一性と差異・差異共振性との関係が揺らいだので、再検討したい。

 自己と他者があり、これは、本来、即ち、イデア界では、自己・即非・他者、即ち、i*(-i)を形成している。しかし、連続的同一性(連一性)化は、- {i*(-i)}⇒-1となる。正しい自己認識は、i*(-i)⇒+1となり、仏教での悟りとは、この様態であると考えられるのである。

 問題は、連一性自我が他者を否定・排除・隠蔽する近代主義の真相である。近代的自我は、この他者否定が徹底していて、また、その連続的同一性観念が唯物論となっているのである。

 先に問題になったのは、自己→他者⇒-1と他者→自己⇒-1の点である。つまり、後者は、成立しないのではないかと異議を立てたのである。即ち、他者→自己⇒+1となるのではないかと述べたのである。

 問題は、認識である。認識とは何か。他者を認識するとき、確かに、言語がなくても、直観で、他者を捉えることはできるだろう。例えば、他者の表情を見て、この人は怪しいとか判断するだろう。だから、問題は、言語認識、観念・概念認識である。これは、言葉がないとおそらくできないだろう。他者を見て、他者に違和感を感じるとする。もし言語がないと、単に、違和感だけで終わり、明確な認識は形成されない。例えば、他者に接して、なにか妙な感じを直感するとしよう。漠然と妙な感じである。これは、自己にとって、不安である。この妙な感じを明晰にしたいという欲求が生じる。そして、思考して、どうやら、その他者は恐怖の感情を回りに漂わせていることが判明したのである。恐怖感というのが妙な感じの正体であったのである。

 だから、言語的他者認識は、自己防衛・自己保存(コナトゥス)にとって必要なのである。ただ、漠然と妙に感じただけでは、たんに不明確な感情だけで、非知性的である。この他者言語認識であるが、これが、一般には、連続的同一性認識と重なるのである。ここに問題点があるのである。

 何が問題なのか。それは、連続的同一性言語認識は、内的他者を否定している点であろう。内的他者を否定して、その否定された他者を、外的他者に投影していると考えられるのである。内的他者を否定する連続的同一性のエネルゲイアが、外的他者に投影されると考えられるのである。即ち、連一性他者認識は、内的他者を否定しているので、同時に、自己認識喪失であると考えられるのである。つまり、外的他者認識とは、内的他者=内的自己認識の喪失であるということである。自分を棚に上げて云々、他人の頭の蝿云々、等々、ことわざにたくさんあるのであるので、周知の事柄である。
 
 では、この否定された内的他者=内的自己は、どうなるのだろうか。これまでの、考えでは、本来、自己は内的他者=内的自己と即非関係にあるのである。そして、これが、差異共振シナジー様相である。(思うに、大乗仏教如来蔵は、この差異共振シナジー様相ないし即非事相を指していると考えられるのである。)だから、内的他者の否定とは、差異共振シナジー様相・即非様相・如来蔵の否定である。
 
 ここで作業仮説であるが、内的他者=内的自己の否定とは、反感、即ち、否定的感情であるとしよう。スピノザの『エチカ』で言えば、悲しみの感情である。とまれ、この否定的感情とともに、外的他者に対する連続的同一性自我言語認識が発生すると言えよう。

 問題は、否定された内的他者=内的自己である差異共振様相である。これは、いわば、潜在態(デュナミス)、即ち、無意識にあると言えよう。そして、これは、単に静的に潜在しているのではなくて、連一性によって否定されたのであるから、その反作用のエネルゲイアをもっているはずである。(思うに、先にも触れたが、連続的同一性への志向性が先行していると見ていいだろう。ここでも、その仮説に従う。)この反作用のエネルゲイアは、差異共振シナジーエネルゲイアである。そう、本来は、零度のエネルゲイアである。これをどう考えたらいいのだろうか。

 ここで、さらに作業仮説すると、初めに、零度の差異共振シナジー様相・即非様相がある。いわば、元差異共振相・元即非相である。しかし、これが、ある契機によって、連続的同一性化=現象化するのである(連続的同一性化と現象化とは、厳密には、区別すべきかもしれないが、ここでは、同一視しておく。)これは、イデア界の回転力学に拠るととりあえず考えよう。即ち、1/4回転である。イデア界の1/4回転によって、連続的同一性化=現象化が生起するということである。i*i⇒-1である。そして、さらに1/4回転すると、i^3=-iである。これが、実際、(-i)*i⇒+1を発生させるのではないだろうか。

 すると、必然的に、差異即非エネルゲイアが発生することになるだろう。しかし、最初の差異即非エネルゲイアとどう異なるのだろうか。元即非界=イデア界がある。そして、そこから、連続的同一性化=現象化が起きる。思うに、ここで、捩れが生じて、連続的同一性化するのである。そして、さらに、捩れが生じて、即非様相へと回帰するのである。いわば、螺旋的回帰である。というか、半回転螺旋的回帰である。

 とまれ、なんらかの原因で、否定された差異即非エネルゲイアが賦活されて、連続的同一性を解体すると考えられるのである。単純に考えると、やはり、反作用である。反作用としての差異即非エネルゲイアの活性化である。

 そのように考えると、近代主義という連続的同一性主義があり、その後、差異即非エネルゲイアが賦活される。それは、モダニズムを解体する志向をもつ。このとき、差異即非エネルゲイアは、連続的同一性を解体するのである。つまり、自我、近代的自我の解体である。(思うに、大乗仏教は、この解体を約二千年前に理論化していたのである。差異即非エネルゲイアの賦活としての空の理論を完成していたのである。トランス・モダンの元祖である。)

 問題は、近代的自我、近代合理主義の解体の意味である。フランスのポスト・モダンは、例えば、初期デリダの場合は、この解体が、脱構築理論自体の解体に結びついたのである。そう、これをどう見るべきなのか。連続的同一性の問題点は、それが、差異即非性を否定することである。しかしながら、差異即非性の肯定は、確かに、連続的同一性の否定ではあるが、同一性自体の否定ではないのである。即ち、差異的同一性があるのである。i*(-i)⇒+1である。つまり、連続的同一性は、他者を否定するのであるが、差異的同一性は、他者を否定しない同一性なのである。つまり、自己が差異即非性を達成したとき、連続性が否定されるのであるが、このとき、同一性が連続的同一性から解放されると考えられるのである。そう、差異即非性の肯定とは、同時に、同一性の連続性からの解放を意味するのである。

 この問題は、不連続的差異論の成立の問題でもある。それは、差異を不連続なものとして把握して、差異を連続的同一性から解放したのである。(プラトニック・シナジー理論PS理論は、不連続的差異の共振シナジーを説いたものである。)そして、結局、不連続的差異と連続的同一性を破壊・解体したのである。しかるに、この破壊・解体は、同一性の救済でもあったのでもある。デリダ脱構築理論の問題は、破壊・解体で終わってしまい、現象界を破壊・解体してしまい、非現実な、非実際的な理論になってしまったことだろう。また、ドゥルーズ(&ガタリ)の理論についていうと、それは、デリダとは、逆に、差異と連続的同一性を混合させている点が問題なのであった。ドゥルーズは、一方では、差異=特異性とし、他方では、差異=微分としたのであり、それは、差異共振性と連続的同一性との混合・混淆であったのである。これは、メディア界と現象界との境界の理論なのである。(ヘーゲル哲学にドゥルーズ哲学は、この点で似ているのである。)このメディア/現象境界において、差異は連続化されて、微分になるのである。

 とまれ、差異的同一性の問題に戻ると、不連続的差異そして、差異共振シナジー相を確認すると、同一性が連続相から解放されると言えるのである。これは、プラトニック・シナジー理論の一つの重要な結果であると考えられる。つまり、現象化を真に認識・確認したことになると考えられるのである。プラトン哲学では、現象は仮象となるが、差異的同一性を提示することで、現象は、単に仮象というよりは、同一性現象となったのである。

 これは、他者的言語認識の肯定である。差異としての外的他者の同一性認識なのである。ここで、心的主体性という自己iの認識が、連続性から解放されて、他者・差異としての同一性認識となったのである。差異・他者としての同一性認識・物質認識である。つまり、自然科学的認識を差異即非イデア論として包摂することが可能になったのである。そう、ちょうど、クザーヌスの学的無知論である。

 では、この差異共振相と差異的同一性との関係はどうなるのだろうか。共振シナジー精神認識と差異的同一性客観物質認識の共立であろう。物質科学を差異共振シナジーイデア学が、包摂した様相である。結局、物質とは、差異共振シナジーの同一性様態なのである。これは、これで、認めることができるのであるが、それは、いわば、現象様態に過ぎないのであり、高次元・超次元においては、差異共振シナジーイデア事相をもっているのである。これは、虚数即非の事相なのである。もはや、現象様態の感覚・知覚では、認識できない(学的無知)と言えよう。そう、直観的感覚・知覚がここでは、必要なのである。ヴィジョン的感覚・知覚と言っていいだろう。そして、これは、身心的ヴィジョン感覚・知覚である。身体をともなった心的感覚・知覚である。今は、ここで留めたい。