エウレカ!、吾人、バッハの東洋性の起源を見出せり!:バッハの祖先

先に私は、以下にあるように、「また、バッハだが、これも勝手な想像だが、やはり、どこかで東洋文化に接しているように思うのである。」と述べたのである。そして、検索して、バッハと東洋を結びつけるものはないかと調べた見つからなかった。
 ところが、今日、渋谷のタワーレコードで、『バッハ―生涯と作品』 (文庫)
ヴェルナー フェーリクス (著), Werner Felix (原著), 杉山 好 (翻訳)

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F%E2%80%95%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%81%A8%E4%BD%9C%E5%93%81-%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC-%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/406159401X
を見たら、冒頭に次のようにあったので、寒気がした。

【そして一七三五年という時点で、音楽にたずさわったバッハ一族の成員に関する浩瀚(こうかん)な系図の作成のために自ら筆を起こし、こうして尋常ならざる伝統の存在を指摘したのは、当時ライプツィヒ在住のヨーハン・ゼバスティアン・バッハその人であった。『音楽に生きるバッハ一族の起源』と題したこの家系図で、ヨーハン・ゼバスティアンは「もとハンガリーで製パン業を営んだヴィートゥス(ファイト)・バッハ」が「十六世紀にルター派プロテスタント)信仰のゆえにハンガリーから退去せざるをえなかった」次第から説き起こして、バッハ一族に連なる五十三名の人物についての記録を残した。】p.17(強調は、renshiによる)

ハンガリーが祖先の生地である。多民族の国なので、バッハ家がいわゆるマジャール人かどうかはわからない。ドイツ系の可能性が高い。ハンガリーはよくしられたようにアジア系のマジャール人の国である。だから、大バッハは、アジアの血が入っていたか、あるいは、アジアの血に接していたのである。私がバッハ音楽に感じる東洋性の由来はこのどちらかにあると考えられるのである。
 とまれ、バッハ音楽の東洋性の起源はこれで、ほぼ確証されたであろう。

p.s. バッハの祖先がロマ(ジプシー)ならば、もっと面白い。
参照:ロマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E


参考1:

音楽の捧げもの
テーマ:クラシックCD オランダは、古楽器復興の中心地だけあり、古楽器の名演奏家が多い。

タワーレコードで、このCDに「不滅の名演」とおおげさなコピーがついていたが、少し聴いただけだが、これまで、聴いた中で、いちばんいい演奏だと思う。何か、ジャズに似たような雰囲気がある。チェンバロのRobert Kohnenが、余韻があり、かつての、レオンハルトを想起させる。フルート・トラベルソのBarthold Kuijkenが、幽玄でいい。そう、この演奏は幽玄を感じるのだ。東洋的である。私は、オランダは、ヨーロッパの東洋と思っているが、正に、その感がある。そう、わび・さびの世界である。これをどう見るのか。バッハ自体がとても東洋的だと思う。私の勝手な想像だが、戦国時代や徳川時代を通して、オランダは、日本文化を輸入して、その影響があるのではないのか。また、バッハだが、これも勝手な想像だが、やはり、どこかで東洋文化に接しているように思うのである。

参考:
「その音楽は川のせせらぎに似て、始まりもなければ、終わりもクライマックスもない。一定の時間内にドラマが起き、完成するという西洋風の思考に対し、バッハの音楽は時間の流れ、その場その場の音の世界をひたすら生み出したもの、と山田雅夫さんは「渦と水の都市学」に書かれています。時間はある目標を完成させるための手段ではなく、ただひたすらに経験すれば良いという視点は、西洋というより東洋的な感じがし、興味を持ちました。」
http://www.arcmedia.co.jp/rasen/kato/hk0008.htm
クライマックスのないバッハ
 加藤 宏之(建築家、国立音楽大学デザイン学科講師)

http://ameblo.jp/renshi/theme-10000285114.html


参考2
ハンガリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

国名

正式名称はハンガリー語で Magyar Köztársaság(マジャル・ケスタールシャシャーグ)。通称 Magyarország(マジャルオルサーグ)。

公式の英語表記は Republic of Hungary、通称 Hungary。

日本語の表記は ハンガリー共和国、通称 ハンガリー

ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。

ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、Magyar の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「マジャル」という表記がもっとも近くなる。

歴史上では、ハンガリー王国多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人 」という表現が用いられることがある。

国際的に用いられる、「ハンガリー」「ウンガルン」と言った呼称は、ラテン語 で「フン人 のガリア 」を意味したという説と、ハンガリー人の故地であるウラル山脈 方面で活動しハンガリー人にも文化的影響を与えた遊牧民オノグル の名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。

[編集 ] 歴史

詳細はハンガリーの歴史 を参照。

ハンガリーの国土はハンガリー平原 と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。

古代にはパンノニア と呼ばれたこの地域は、ローマ の属州イリュリクム、ローマ帝国 の属州パンノニアを経てゲルマン人 の激しい侵入を受け、5世紀 にはフン 、6世紀 にはアヴァール が東方からやってきて定着した。8世紀 にはアヴァールを倒したフランク王国支配下に移るが、9世紀 には東方から新たにやってきた遊牧民ハンガリー人に征服された。

10世紀 末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世 は、西暦1000年 にキリスト教 に改宗し、西ヨーロッパ カトリック 諸王国の一員であるハンガリー王国 を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア 、ヴォイヴォディナ 、クロアチアダルマチア などを広く支配する大国に発展する。13世紀 にはモンゴル帝国 軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の14世紀 から15世紀 頃には特に周辺の諸王国とも同君連合 を結んで中央ヨーロッパ の の強国となった。

しかし、15世紀後半からオスマン帝国 の強い圧力を受けるようになり、1526年 にモハーチの戦い に敗れて国王ラヨシュ2世 が戦死した。1541年 にブダ が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1をハプスブルク家オーストリア によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。

オスマン帝国の軍事的後退とともに1699年 のカルロヴィッツ条約 でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアトランシルヴァニアオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年 の3月革命 においてコッシュート・ラヨシュ が指導した独立運動こそロシア帝国 軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、1867年 にアウスグライヒ (和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家オーストリア帝国ハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア・ハンガリー帝国 となった。
トリアノン条約前のハンガリーの国土(1920年) 黒枠が現在のハンガリー。国内の民族分布を色彩で表した。マジャル人(赤)、ドイツ人(黄色)、ルーマニア人(青)、セルビア人(薄緑)、クロアチア人(緑)、スロヴェニア人(紫)、スロヴァキア人(橙)、ウクライナ人(茶)
トリアノン条約前のハンガリーの国土(1920年) 黒枠が現在のハンガリー。国内の民族分布を色彩で表した。マジャル人(赤)、ドイツ人(黄色)、ルーマニア人(青)、セルビア人(薄緑)、クロアチア人(緑)、スロヴェニア人(紫)、スロヴァキア人(橙)、ウクライナ人(茶)

オーストリアハンガリーのもとハンガリーでは資本主義 経済が発展し、ナショナリズム が高揚したが、第一次世界大戦 で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の1920年 に結ばれたトリアノン条約 によりハンガリートランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。

戦間期ハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュ が摂政 として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。第二次世界大戦 では失地回復を目指して枢軸国 側について敗戦、ソビエト連邦 に占領された。

戦後のハンガリーソ連の影響下のもと共産主義国 ハンガリー民共和国として再出発し、冷戦 体制の中で東側の共産圏に属した。しかしソ連に対する反発も根強く、1956年 にはハンガリー動乱 が起こるが、ソ連に鎮圧されてしまった。

1980年代 末になると冷戦終結の機運とともに共産党社会主義者労働党 )独裁の限界が明らかとなり、1989年 にハンガリー一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法 を改正して国名をハンガリー共和国とし、ハンガリー民主化 鉄のカーテン 」を撤去し、国境を開放した。これによりハンガリー国内に西ドイツ への亡命を求める東ドイツ 市民がハンガリー国内に殺到、汎ヨーロッパ・ピクニック を引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。 が進められた。同年5月、ハンガリーは西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「

1990年代 のハンガリーはヨーロッパ 社会の復帰を目指して改革開放を進め、1999年 に北大西洋条約機構 (NATO)、2004年 に欧州連合 (EU)に加盟した。
国会議事堂(ブダペスト
国会議事堂(ブダペスト


国民

ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな文化 をもった様々な民族 が居住していることが19世紀 以来よく知られている。

ハンガリー共和国の国民の95%以上はハンガリー人である。ハンガリー人はフィン・ウゴル語族 のハンガリー語母語 ウラル山脈 の方面から移ってきた歴史 をもつため、「アジア系民族 」と紹介されることもある。その文法構造のため、ハンガリー国民の人名は正式に表記した際に姓 が名の前につく、ヨーロッパ で唯一の国民である。 とし、

ハンガリー人は旧ハンガリー王国 領に広まって居住していたため、セルビア のヴォイヴォディナ 、クロアチア 北部、スロバキア 南部、ルーマニアトランシルヴァニア などにもかなりのハンガリー人人口 が残る。また、ハンガリー人の中にはモルダヴィア のチャーンゴー 、トランシルヴァニアのセーケイ や、ハンガリー共和国領内のヤース 、マチョー 、クン 、パローツ などの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人がアラン人 の末裔、クン人がクマン人 の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。

その他の民族では、ロマ (ジプシー)とドイツ人 がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は東方植民地運動 の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニア のサース人(ザクセン人 )やスロヴァキア のツィプス・ドイツ人 のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。

その他の民族では、ルテニア人 (ウクライナ人 )、チェコ人 、クロアチア人 、ルーマニア人 などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦 以前には、ユダヤ人 人口もかなりの数にのぼったが、アメリカ合衆国イスラエル に移住していった人が多い。

言語 的には、ハンガリー語 が優勢で、少数民族 のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%にのぼる。

宗教 はカトリック (67.5%)が多数を占め、カルヴァン派 もかなりの数にのぼる (20%)。その他ルター派 (5%)やユダヤ教 (0.2%) も少数ながら存在する。

[編集 ] 文化

ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化で有名で、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団 (有名なものとしてはロマ)を担い手とする民族音楽は有名である(詳細はハンガリーの音楽 を参照)。

また、リスト・フェレンツ (フランツ・リスト)、コダーイゾルターン 、バルトーク・ベーラ など多数の著名なクラシック音楽 の作曲家 も輩出した。彼らの中には多様な民族音楽 にインスピレーションを受けて作曲を行った音楽家も多い。

また、ハンガリー国内にはユネスコ世界遺産 リストに登録された文化遺産が6件ある。さらにオーストリアとにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。詳細は、ハンガリー世界遺産 を参照。



参考3

マジャル人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AB%E4%BA%BA