光の変換について:イデア界→メディア・ポイント(MP)→現象界:二

光の変換について:イデア界→メディア・ポイント(MP)→現象界:二つの《光》:物質の光と精神の光


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


どうも、本件の問題は、直感ではわかるようでいながら、記述表現しようとすると、説得力のないものになってしまうようだ。

 ここ数日問題にしているのは、連続的同一性による認識と差異的同一性による認識の相違を理論化することである。

 具体的に言えば、《光》を知覚・認識するとは何か、ということである。そして、イデア界の《光》と現象界の《光》はどういう関係にあるのか、ということである。

 先に書いた座標を参考にしよう。


           虚数

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            |+i=原知性
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  連続的同一性          差異的同一性
_-1__________________原点______+1____実数軸
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             -i=原身体
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 これにさらに説明をつけると、


           虚数

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            |+i=原知性・ロゴス
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  男         | 女
  連続・無明・物質  | 不連続・明・精神 
  連一性          差一性
_-1__________________原点______+1____実数軸
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             -i=原身体・パトス
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問題は、イデア界の《光》のエネルギーをm*(ci)*(-ci)とすると、それが、現象界では、m*(ci)*(-ci)=mc^2⇒Eとなるのであるが、知覚は、連一性に囚われるので、-1から、上図の実数軸のマイナスから《光》を捉えることである。

 端的に言えば、《光》を物質として捉えるということである。しかし、i*(-i)⇒+1の即非・共振の観点から見ると、《光》は、共振性をもっているのである。つまり、ci*(-ci)の共振性を《光》は帯びているはずである。

 それが、物質としての《光》では消失しているのである。粒子と波動の相補性の概念は、《光》の共振性を、物質的波動として見ているだけのように考えられる。

 つまり、量子力学は、《光》の超越的差異・即非・共振性の次元・虚数次元を欠落させているということである。

 有り体に言えば、量子力学は、実数軸においてのみ、《光》を理論化していることになるだろう。正確に言えば、メディア・ポイント(原点)に接しつつ、実数軸中心で理論化しているということだろう。

 問題は、単に実数軸中心だけではなくて、実数軸のマイナス領域(-1)で、《光》を捉えていることである。つまり、唯物論で把捉していることであり、実数軸のプラス領域(+1)では、捉えていないことである。

 実数軸のプラス領域(+1)とは、精神の領域であると思えるのであり、それは、これまで、宗教、哲学、芸術が捉えてきた領域であるように思えるのである。宗教の《光》は、この領域に属すると思えるのである。

 ここが、本件の問題のポイントの一つである。即ち、イデア界の《光》、即ち、元光が現象界の《光》になると思われるが、そのとき、±1の《光》として、現象化すると思えることである。これが、本件での思考実験の一番の問題点である。

 この±1の《光》、これは複雑で、一見、二重に考えられるが、実際は、メディア・ポイント(原点)を含むので、三重・三相ではないだろうか。

 とまれ、⇒+1を考えると、それは、共振性、メディア・ポイントを介して、超越性を含んでいると言えよう。それに対して、⇒-1は、メディア・ポイントを介するものの、連続化するので、超越性を否定・排除していると言えよう。

 +1と-1は、そうすると、非対称性をもっていると言えよう。(なお、ポスト・モダン、ポスト構造主義とは、このメディア・ポイントを混濁して理解していたのである。つまり、それらは、明晰・明確に、虚数軸・超越性を理解していず、実数軸・連続性と虚数軸・不連続性を未分化的に混同していたのである。)

 さて、問題は、±1の《光》(二相ないし三相の《光》)を、単に物質的光と見るとはどういうことなのだろうか。具体的に言えば、《光》のエネルギーの計測はどうなるのだろうか、ということである。

 m*(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・c^2⇒+1・E

であるが、これは、+1であるから、共振性をもった《光》のエネルギー量ではないのかと思えるのである。

 物質の《光》ならば、-1であるから、⇒-1・Eではないのだろうか。これが、大きな疑問点なのである。これが、問題点の核である。

 この+1・Eと-1・Eの相違をどう見るのか、である。ここで、作業仮説であるが、相対性理論とは、共振する《光》、即ち、+1の《光》の理論であり、それは、-1の《光》を排除しているのではないだろうか。つまり、端的に言えば、現代物理学は、錯誤を犯しているのではないのかということである。なぜなら、物質としての《光》は、-1であるのに、相対性理論の《光》は、+1であるからである。すなわち、-1と+1を混淆させているということである。

 そう、《光》の認識にズレがあると考えれるということである。物質の《光》と精神の《光》のズレと言えるのではないだろうか。アインシュタインの《光》は、精神の《光》の理論であると思えるということである。

 これは、思いつきであるが、物質の-1の《光》と精神の+1の《光》のズレが、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題として出ているのではないのか。

 ダーク・マターとは、-1の《光》に関係するのではないのか。また、ダーク・エネルギーは、ダーク・マターのエネルギーに、イデア界の元エネルギーm*ic*(-ic)を加えたものと関係するのではないのか。

 とまれ、本件の問題にもどると、連続的認識と不連続・共振的認識のズレが、知覚・認識の問題として生じていると思えるのである。

 そう、これは、人間の基本的認識の混乱と言ってもいいだろう。言い換えると、近代的認識の問題である。二つの《光》があるのに、近代的合理主義(近代科学的唯物論、近代的自我)は、一つの《光》、すなわち、-1の《光》、物質の《光》に限定してしまったと考えられるということである。

 だから、問題は、自然科学の発展は、この近代的認識の枠組みを超えたところに達しているのに、自然科学の認識の枠組みは、旧態依然の唯物論なのであるということではないか。

 相対性理論量子論は、メディア・ポイントを介しての、超越的現象事象を対象にしているのに、その認識のフレームワークパラダイム)は、未だに、近代的物質主義であると考えられるということである。この理論的進展と思考・認識的反動の矛盾・齟齬が大問題であると思えるのである。

 このズレは何ももたらすのか。それは、明らかに、狂気(暴力・破壊)である。二つの《光》を一つの《光》に限定するのであるから、他の一つの《光》を否定・排除・隠蔽するので、それが反動(バックラッシュ)化して、狂気となって、心を襲うはずである。

 近代的自我は、精神の《光》、アインシュタインの《光》を排除しているので、それが、狂気となってバックラッシュすると考えられるのである。現代日本人の狂気がこれであると考えられるのである。

 宗教上の《光》は正しいのである。それを、アインシュタインは科学的に理論化したと考えられるのである。そう、哲学認識の遅れがあり、それが、人類の超大惨状・超大危機をもたらしていると言えよう。問題を逃避して、刹那的に世俗に愚劣に酔い痴れているので、とりわけ、日本人が危ういのである。

 結局のところ、物質的認識(近代的自我認識)と精神的認識(トランス・エゴ認識)の未分化的混乱・混濁・混淆があるのである。そして、現代は、後者がさらに進展しているのである。差異共振シナジーが、フラット化等で、進展しているのであり、ますます、近代的合理主義という旧パラダイムとのズレが拡大しているのである。この点でも現代日本は、危ういのである。

 そう、ここでの検討の結果、あるいは、PS理論は、文科系的真理と理科系的真理が一致することを説いているのである。本件で言えば、宗教上の《光》と相対性理論の《光》は一致するということである。文理融合、文理統一、文理一体化は、現代の真理であるのである。

 だから、人間の認識の超革新が現代必要なのである。現代は、コペルニクスの時代と等しく、パラダイムの転換のエポックなのである。この転換をPS理論は説くものである。

 近代的自我を乗り越えて、トランス・モダンの自己に変容・進展・進化する必要があるのである。とりわけ、大乗仏教はこのことを述べてきたと言えよう。とまれ、PS理論が明晰に知的にこの乗り越えを説明できると言えよう。不連続性と差異即非共振性、ここにすべてがあると言っても過言でない。

 別稿で、更に検討を続けたい。