フッサールとハイデガー:超越論性と存在について:メディア・ポイン

フッサールハイデガー:超越論性と存在について:メディア・ポイント*は即非点(ポイント)である


テーマ:哲学


ポイントだけ触れると、先にも述べたが、ハイデガーフッサールの超越論性を理解していないということが言えるだろう。

 フッサールは、日常の自然的態度(主客分離)をいったん停止して(エポケー)、純粋意識を捉え、それを志向性と呼んだのである。これは、超越論的意識ないし元意識である。超越論的空間をフッサールは提起したのである。

 それに対して、ハイデガーは、存在者(つまり、通常、生活している人)は、存在によって規定されていると考えているのである。存在とは、いわば、存在者の原型・構造である。つまり、構造としての存在をハイデガーは説いたと考えられるのである。

 確かに、そう見ると、存在とは、一種、超越論性をもっていると言えるだろう。しかし、ハイデガーのいう「関心」(志向性に相当する)は、存在⇒存在者である。(これは、PS理論から言うと、メディア・ポイントから連続性への展開・転化である。)

 これは、フッサールの超越論性=志向性とはまったく異なると言えよう。なぜなら、フッサールは、超越論性内部における志向性を説いているのであって、連続性以前、現象化以前の様相を問題にしていると考えられるからである。

フッサール:志向性(元意識)*⇒自然的態度(連続性)

ハイデガー:*存在⇒存在者 (*をメディア・ポイントとする。)

つまり、メディア・ポイント*から見ると、フッサールには、切断(不連続性)があるが、ハイデガーには、切断がなく、連続性のまままである。あるいは、メディア・ポイントにおける内在的構造性の連続的展開において、存在⇒存在者の生成を考えているということになると思われる。

 ここで、構造について説明すると、それは、メディア・ポイントにおける連続的同一性形式のことであろう。超越界(イデア界)における差異即非事相が連続的同一性に切り替わるメディア・ポイントの形式が構造であろう。

 ここは、確かに、ゼロ度の様相であるが、このゼロとは、超越的・虚数的不連続性と内在的・実数的連続性との交差点である。いわば、空と色の相互変換点である。A≠Bであり、A=Bである。Aでもあり、Bでもあり、且つ、Aでもなく、Bでもない。

 そのような視点から、本件の問題を見ると、フッサールは、メディア・ポイントにおける、超越的不連続性と内在的連続性との切断を、超越論的現象学で論じたと言える。

 それに対して、ハイデガーは、超越的不連続性を無視して、メディア・ポイントにおける、形式構造・内在性(=存在)からの、連続的同一性(=存在者)への転化を論じたと考えられるのである。

 つまり、超越性=虚数軸を無視した、連続性=実数軸上のメディア・ポイントの構造(=内在的同一性形式=存在)からの連続的同一性(=存在者)への転化を説いたと思えるのである。

 存在論において、ハイデガーは、知や認識を否定しているので、当然、存在論ないし存在者論は、身体的連続的同一性論になると考えられるのである。この身体的連続的同一性論は、いわば、非合理な感情・欲望論となるだろう。それが、関心であろう。そして、また、同時にそれは、先にも触れたように、連続的同一性の全体主義志向をもつので、ファシズム全体主義の原型的思考と言えるだろう。

 連続的同一性の全体主義的志向性について説明すると、それは、連続的同一性は、他者を否定して、主体と同一性化させる志向性をもっているのであるが、この他者否定的連続的同一性自我とは、正に、全一的であり、独裁的であるのである。
 
 つまり、連続的同一性志向性とは、もともと、元知という一者に、他者を帰せしめんとする欲望である。一者であり、全体なのである。これは、一神教父権制の欲望と言っていいものである。この連続的同一性志向性は、単に、元知の場合だけでなく、元身体の場合にも可能である。元知の連続的同一性=全体主義が、ヘーゲル哲学に帰結し、元身体の連続的同一性=全体主義が、ハイデガー哲学に帰結したと言えるだろう。

 フッサール哲学は、プラトンデカルト、カントを継承しているのである。そして、ハイデガー哲学は、裏返しに、ヘーゲルを継承して、また、存在を、物質的生産力ととれば、マルクス主義を継承していると思えるのである。ハイデガーが、ナチス国家社会主義に関与したというのは、この点で整合性があるように思われる。そう、マルクス主義唯物史観であるが、それは、存在=物質的生産力の歴史的進展論と考えることができるのではないだろうか。つまり、存在は、身体的連続的同一性構造であり、それが、物質構造と同形であるのである。

 さらに論を展開すると、近代日本のマルクス主義ないし国家社会主義(国家統制経済岸信介の政治経済思想)の思想的起源が理解できるのではないだろうか。

 すなわち、日本語のもつ主語の貧弱さないし不在性から、元知的連続的同一性ではなく、元身体的連続的同一性が支配するのである。これが、存在であり、物質的生産力である。ここから、唯物史観が発生すると言えよう。そして、知識人の柄谷行人マルクス主義を、中沢新一が霊的唯物論を説くのも、同一根拠によると考えられるだろう。柄谷行人の他者とは、存在なのである。だから、唯物論なのである。そして、中沢新一の場合、霊(「もの」)は、存在なのである。だから、霊的唯物論なのである。両者、同形である。

 存在が神秘性をもつのは、それが、メディア・ポイントに置かれているからだろう。もっとも、実数軸・連続性における構造としてのメディア・ポイントである。存在は連続性ではあるが、メディア・ポイントは、ゼロ=無でありつつ、有であるということなので、連続性の世界=現象界においては、超越性を示唆すると言えるだろう。

 そう、メディア・ポイント*であるが、ここは、超越的不連続性・即非性と内在的連続性・同一性が交差する空間ではあるが、端的に言えば、即非ポイントと言えるのではないだろうか。

 即ち、不連続性・即非・連続性という意味での即非ポイント・即非点である。だから、存在においても、即非ポイント・即非点が存するので、現象界においても、超越界・イデア界を示唆するので、神秘性を帯びるということではないだろうか。しかし、だからこそ、超越界・イデア界・差異即非界を、内在的に連続化してしまう大錯誤を多くの哲学者は犯してきたと言えるだろう。典型が、ドゥルーズである。特異性=超越性を差異=微分と等価にしてしまったのである。

 さて、ここで、現代世界を考えると、明らかに、近代化という連続的同一性主義は終焉したのであり、即非点であるメディア・ポイントを介して、脱連続的同一性志向性、即ち、差異共振的同一性志向性が発動していると考えられるのである。

 i*(-i)⇒+1の様相になっているのである。差異共振シナジー様相になっているのである。これは、情報空間的には、フラット化である。連続的同一性という近代合理主義=唯物論国家主義は解体し出しているのである。理事無碍から事々無碍へと展開しているのである。

 これをエネルギー論的に考えるとどうなるのだろうか。連続的同一性は、i^2 or (-i)^2⇒-1である。-1の物質エネルギーが支配的である。それに対して、現代、トランス・モダンは、i*(-i)⇒+1のエネルギーが発動しているはずである。差異共振シナジー・エネルギーが主導的になっているはずである。この連一性エネルギー-1と差異一性エネルギー+1は、実際のところ、どう異なるのだろうか。

 端的に言えば、前者は、保守反動のエネルギーであり、後者は創造的エネルギーである。自滅・自壊エネルギーと共生共創的エネルギーである。死のエネルギーと再生のエネルギーである。エントロピーとネゲントロピーである。

 両者、エネルギーであるが、質的に異なるだろう。Kaisetsu氏に倣うと、m*ic*(-ic)⇒+1・mc^2⇒+1・E であり、即非ポイントが、異なると言えるだろう。つまり、即非ポイントの有無が質の違いである。

 つまり、即非的エネルギーと連一的エネルギーである。つまり、超越的エネルギーか、否かであろう。

 この違いは、現象的にはどう出るのだろうか。あるいは、物質的にはどう出るのだろうか。

 経済から見ると、それは、生産等の創造性の違いに現れるのではないだろうか。もし、即非エネルギーのある会社ならば、新しい要素との共振化に、リスクをともないつつ、踏み切るだろう。それは、イノヴェーションがあるかどうかであるわかるだろう。保守反動化した企業は、不二家のように、没落するのである。

 だから、即非エネルギーの有無は、現象・物質的には、可視的には、そのような異質な要素との共振融合というイノヴェーションとして発現すると言えよう。

 そう、ここでは、単に物質だけはなく、人と企業との共振態ということで見なくてはならないということである。「資本」とは、単に、貨幣で計られるのではなく、物質的資本を含めて、即非エネルギー量で計られるのではないだろうか。それは、差異共振シナジー資本経済である。

 そして、このためには、差異共振シナジー通貨や銀行が必要なのである。

p.s. エネルギーに関する問題だが、私は、これまで、m(ci)^2ないしm(-i)^2⇒-1・Eを物質エネルギーと想定してきたが、ここでの+1・Eとは、符号がことなるのである。これをどうみたらいいのかが、検討課題である。

 思うに、同一性=絶対値1(|1|)で考えればいいのかもしれない。連続的同一性にしろ、差異的同一性にしろ、同一性は、絶対値1となる見ればいいのではないのか。そうすると、|-1|=|+1|=|1|=同一性となり、⇒Eとなるだろう。

 疑問だが、虚数エネルギーは、実際のところ、観測・計測できないのか。これは、精神エネルギーでもある。いわゆる、オーラというのが、虚数エネルギーを指すだろう。それは、知覚はできるが、計測できるのか。オーラ計測器である。後で検討したい。

toxandoriaの日記へのTB
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