超越論的主観性と超越論的主客(主他)即非性(=イデア性)

超越論的主観性と超越論的主客(主他)即非性(=イデア性)


テーマ:哲学


少し、フッサールの『デカルト省察』を拾い読みしたが、これまで超越論的主観性に対して考えていたことが、妥当することが確かめられたと思う。

 すなわち、私は超越論的主観性は、実は、客観性に通じている。端的に言えば、PS理論の主客即非論に通じるものと考えていたのである。本書で、フッサールは、いみじくも、「超越論的な存在」(p. 50)。、「超越論的主観性の存在」(p. 50)と述べているから、超越論的主観性は、超越論的主・客即非性に通じると考えられよう。

 つまり、フッサールは、デカルトのコギト・エルゴ・スム(我思う。故に、我在り。)という思考即存在を基盤にしているのであり、これは、ほぼ主観即客観と言えるのである。もっとも、正確に言えば、主観即存在であるが、この存在が、客観に転化するので、こう言ってもいいと考えられるのである。これまでの、言い方をするなら、知即存在である。

 だから、フッサールの超越論的主観性とは、同時に、超越論的存在論ないし超越論的主客即非論と言っていいものと言えるのである。だから、既に、フッサールは、存在論を述べているのである。

 ここから、ハイデガー存在論の厚かましさと二番煎じ性がわかるし、また、さらに言えば、誤謬もわかるのである。つまり、ハイデガーは、世界・内・存在と言う。しかし、内とは、内部・内在ということであり、超越論性ではないのである。以前も述べたが、ハイデガーが現代哲学の進展を阻害し、後退させた、人物である。ドゥルーズが、内在論に留まった原因の一端は、ここにあると思えるのである。

 ここで、用語の整理をすると、超越論的主観性は、超越論的主客即非性ないし超越論的主他即非性と読むべきだと考えるのである。つまり、志向性のイデアをそこで説いているのである。

 そして、昨日記したフッサールへの疑念であるが、超越論的主観性から間主観性へと転化することを見ると、その主観性の志向性は、連続的同一性志向ではなくて、差異共振志向性であることがわかるのである。昨日の私の批判を取り下げたい。

 そうすると、フッサールは、以前から述べているように、PS理論のもっとも近い先駆者の一人であると思えるのである。ただし、即非性という思想は、鈴木大拙の天才性に拠らなくては考えられなかったものであろう。もっとも、ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』でほぼ同じことを述べていたが、即非と端的には理論化してはいない。ついで言うと、ドゥルーズガタリの離接という概念であるが、それも、即非に近いが、空間的概念で、即非の論理のように、純粋な論理学的概念には達していなかったと言えよう。

 最後に付け加えると、「超越論性」という概念であるが、これは、端的に言えば、内在的超越性である。しかし、この用語も、完全には、明確ではないのである。複素平面における原点がメディア・ポイントとなるが、これは、虚数軸の不連続性と実数軸の連続性が交差するポイントである。実に微妙な変換・転換ポイントなのである。正に、大乗仏教の空性をもつのである。この点に関しては、不連続的差異論とPS理論のみが明確に解明しうると言えよう。とりわけ、PS理論の独壇場と言えよう。思うに、「超越論性」とは、内在・即非・超越性と言うのが正しいと思うのである。内・即非・超越性である。フッサールは、大乗仏教の伝統を欠いていたので、不器用な命名しかできず、あいまいさをもたらしたと言えるように思うのである。



デカルト省察 (文庫)
フッサール (著), 浜渦 辰二
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