光の超越的二相性について:m(ic)*(-ic)⇒±1・mc^2=±1・E

光の超越的二相性について:m(ic)*(-ic)⇒±1・mc^2=±1・E


テーマ:プラトニック・シナジー理論


ライプニッツの『形而上学叙説』を読んでいて、本件について考えた。メモを取ったが、それを書くと、冗長になるので、ここでは、ポイントだけ述べたい。

 考察の経緯は置いておくと、問題は、i*(-i)⇒±1である。的確に記述すれば、i-MP-(-i)⇒±1である(MPはメディア・ポイントである)。

 MPを介して、イデアは、-1と+1に分化すると考えられるのである。思うに、近代以前においては、+1がなんらかに知覚ないし意識されていたと思うのである。おそらく、+1の表象としての宗教や神話等があったと考えられるのである。

 それが、近代化において、否定されて、-1の世界観になったと考えられるのである。ルネサンスないし、所謂、近世は、まだ、-1と+1とが共存していて、それを整合化させる創造的芸術や哲学が生まれた。

 プロト・モダンとは、本来、新たなイデアの発動であり、それが、現象界的には、±1の共存事象となり、それが、ルネサンスと近世において、豊かな創造性の発露となった。しかし、西欧文明は、父権的であり、連続的同一性に傾斜しているので、-1が主導的になり、+1が否定され、結局、超越性・イデアが否定されたと考えられるのである。近代合理主義・唯物論の勃興である。

 とまれ、私が考えたのは、メディア・ポイントを介して、-1と+1の現象が発生する。光で言えば、光とは、±1の様態をもつのであるが、それが、近代合理主義のおいて、-1が中心となり、+1を否定したと考えられるのである。

 端的に言えば、-1が物質様態なのである。これが、カントの超越論的形式、すなわち、時間・空間形式だと考えられる。

 本来、光は、±1の二相的様態をもつだろう。しかし、+1の様態が否定されたのである。これは、精神・コスモスの光の否定であろう。

 光で言えば、-1の物質的様態の光が肯定されたと言えよう。

 問題は、現象化においては、-1と+1の両相が発現しているはずであるが、近代合理主義ないし近代的自我においては、-1が中心となり、+1を混同化してしまったと考えられるのである。あるいは、-1と+1との矛盾の発生である。しかし、近代科学は、近代技術をともない、資本主義の発展と連動し、-1の世界観が支配的になったのである。

 そのため、本来、存する+1が否定・排除・隠蔽されたのである。これは、超越性(虚数軸)を内包する(身体的霊性)ので、超越界・イデア界の否定であると言えよう。近代主義の闇(悪魔性)は正にここにあるのである。

 物質主義・唯物論は、光の-1の様態だけを見ているのである。カントの超越論的形式である。

 だから、エネルギー式は、m(ic)*(-ic)⇒m(ic)-MP-(-ic)⇒-mc^2ではないだろうか。つまり、マイナスのエネルギーを物質エネルギーとして見ているのではないだろうか。プラスのエネルギー、すなわち、m(ic)*(-ic)⇒+mc^2は、看過されているのではないだろうか。さらに言えば、m(ic)*(-ic)のイデア・エネルギーが看過されていると思えるのである。

 結局、+mc^2やm(ic)*(-ic)がダークエネルギーではないのか。

 ここで、知覚・認識の問題を考えると、西欧の父権主義によって、連続的同一性に傾斜しているので、連続的同一性-1と差異的同一性+1が混同されていると思えるのである。-1は、唯物論であり、これが、+1の超越的差異共存、差異即非性を否定していると考えられるのである。

 否定された+1が反動態・バックラッシュとなり、近代主義的主体を狂気にしているのである。また、これが、資本主義/国家主義と結びついて、環境を破壊しているのである。

 結局、光は、二相様態であるが、連続的同一性(連一性)が支配しているので、光は一面的に知覚されているに過ぎず、また、イデア的光、宗教的光が喪失されているのである。

 光の+1の様態という実在しているものを否定しているから、近代主義は、非合理主義(狂気)なのである。

 明らかに、知覚・認識の錯誤・倒錯が近代合理主義・近代的自我にはあるのである。これが、暴力・差別・貧困・戦争を生んでいるのである。

 今日・現代、人は、一般に、超越界・イデア界があることをまったく考えていず、-1の連続的同一性現象界に埋没しているのである。確かに、混同的には、当然、+1は内在しているが、-1の力のために、+1のもつ本源的超越性(虚数世界)に達することができずにいるのである。

 ここで、次元について簡単に触れると、-1が3次元空間ないし4次元時空間であろう。では、+1はどうなのだろうか。

 +1はコスモスである。それは、差異共振性・虚数軸を指示する。大乗仏教的には、如来蔵と言えるだろう。

 問題は時間である。いわゆる、過去・現在・未来の連続的時間は、-1に属するだろう。そして、+1は、思うに、永遠的時間に通じているのではないだろうか。ここは微妙である。なにかに深く感動するとき、時間を超越するが、その経験が+1であり、永遠の時間に関係するのではないだろうか。

 あるいは、いわゆる、神秘的体験であるが、それも、+1の体験ではないだろうか。そう、ウィリアム・ジェイムズ純粋経験も、これを指しているのではないだろうか。19世紀末から20世紀初期にかけて、この+1の経験が問題になったと言えよう。4次元の問題は正に、これを問題にしただろうし、文学の意識の流れの経験もここに関係しているだろう。

 問題は、この+1が、それとして明確に認識しなかったと思われることである。メディア・ポイントMPの問題なのである。すなわち、-1と+1の二相が混淆・混濁されて認識されていたように思えるのである。

 そう、フッサールはこれを明確に区別して、超越論的現象学を構築したのであるが、他は、これらを混淆したのである。それらが、ベルクソンハイデガーメルロ=ポンティドゥルーズ他(パースやホワイトヘッド)の哲学と言えよう。(ニーチェの場合は、格別で、-1を破壊するだけでなく、+1も破壊して、積極的ニヒリズムとなったのである。+1をも否定したので、超越性も否定して、いわば、実数軸の零度を表出したと言えよう。)

 端的に言えば、+1の経験を十全に理論化したのは、鈴木大拙であると言えよう。即非の論理学は、正に、+1の経験を純粋に理論化したものと言えるのである。また、西田幾多郎であるが、彼は、-1と+1との混乱を犯しつつも(つまり、連続的同一性・物質と差異的同一性・精神の混同である)、即非の論理を絶対矛盾的自己同一という形でほぼ表現したと言えよう。

 さて、時間の問題にもどると、時計の時間は、明らかに、-1の時間である。永遠の時間であろうと上述した+1についてさらに考察すると、これは、空間的には、どういうことになるのだろうか。思うに、これは、芸術的空間ではないだろうか。感覚がありつつも、差異共振的感覚なのである。即非空間である。これは、現代アート的空間ではないだろうか。直感では、-1がユークリッド空間であり、+1が非ユークリッド空間ではないだろうか。

 では、最後に、虚数軸の空間や時間はどうなるのだろうか。

 空間的には、4次元であろう。4本の直交軸が存するのではないのか。この4次元空間のイデア事象が、現象3次元空間において、時間事象となるのではないのか。

 例えば、朝顔イデア事象があるとしよう。それは、4次元空間においては、永遠事象であるが、それが、現象界においては、時間生成消滅をともなって発現するということではないだろうか。

 有り体に言えば、種・発芽・根・蔓・つぼみ・花弁・実までが、無時間的に共存しているのではないのか。

 後で、再検討したい。