メディア・ポイントMPと近代の盲点

今、リュプザムのピアノ演奏で、バッハの『イタリア協奏曲』を聞いているが、水晶のような硬質で、立体感のある演奏である。
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この演奏は、現代ではめずらしくリリシズムとクリスタルな硬質性のある演奏である。クリスタル・リリシズムである。

このような演奏は、メディア・ポイントに基づくと思うのである。

しかしながら、現代においては、一般に、メディア・ポイントに基づかない演奏が多い。

末期近代主義として、メディア・ポイントを失っているのである。

元知iと元身体-iを、連続化(連続的同一性化)して、i*(-i)におけるメディア・ポイント*を喪失しているのである。

単に、音符を連続的同一性として読んで、演奏している、機械的な演奏が多いのである。

オーケストラでいうと、この元凶は、ヘルベルト・フォン・カラヤンであろう。彼の演奏術は、表面的なつややかさを追求したものであり、音符の「行間」にある差異的同一性i*(-i)⇒+1をまったく無視していると思うのである。

わかりやすく言えば、魂のない演奏がほとんであるということである。

魂は、理論的には、メディア・ポイントと言っていいだろう。しかし、この場合、魂と精神はほぼ同じである。

とまれ、メディア・ポイントを拠り所にすると、間(ま)が形成されると思う。チェンバロ奏者のレオンハルトの演奏が、このようなものである。

「こころ」というのも、メディア・ポイントであろう。「こころ」は、知と身体との中間態である。あるいは、主体と他者との中間態である。

「愛」という言葉は、私は、昔から苦手だが、「愛」は、メディア・ポイントを連続化していると思う。つまり、自己・即非・他者の即非性を同一性化したのが「愛」だと思う。これは、やはり、自我だと思うのである。キリスト教の「愛」とは、やはり、自我的なのではあるまいか。

とまれ、復習になるが、近代主義は、連続的同一性なので、メディア・ポイントを否定してしまうのである。そして、機械的感覚・欲望主義になるのである。物欲である。

思うに、感覚とは何だろうか。感覚欲望とは何だろうか。例えば、ブランド物への感覚欲望とは何か。

それは、明らかに、機械的感覚・欲望である。

精神的感覚と機械的感覚は異なるのである。冒頭に述べたように、ほとんど知られていないリュプザムの演奏は、精神的感覚の演奏である。カラヤン機械的感覚の演奏である。

メディア・ポイントの喪失が近代主義なのである。

ここは、イデアと現象との変換点である。

リュプザムの演奏にもどると、イデアとしての差異共振シナジー(超越的即非性)があり、同時に、現象的同一性がある。この差異共振性に基づく現象的同一性を表現することが、芸術的表現であろう。

近代主義の息の根を止めろ!